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こんにちは。
もともとは嶺南山脈以南の東南アジアの歴史に関心のある巫俊です。
(気候区分的には嶺南山脈以南=東南アジア)
最近気付いたんですが、我々にとってなじみの深い揚州は東南アジアから見ると嶺南山脈の東端と位置付けられていまして、
「嶺東」とも呼ぶべき山岳地帯とそのあいまを流れる長江の土砂が堆積した平原から成っているのだと気付きました。
(嶺東は福建、浙江、江西、安徽、江蘇の各省の山岳地帯と大河堆積平原を指す造語です。)
最近はちくまの『正史三国志』6〜8巻(呉の巻)を読みふけっております。
もともと交州の歴史が知りたくて読み始めたんですが、交州は9郡もあるのでにわかには近寄り難く、揚州南部の建安郡あたりの歴史から史料収集をしています。
それで現実逃避というか孫堅、孫策、劉ヨウあたりの伝記が無性に面白くすっかり呉の歴史の擒になりつつあるのですが、
揚州牧・振武将軍の劉ヨウの伝記って肝心なところで紀年が欠けているところが多いですよね。
この事件いつだったんだ〜って悲鳴上げているんですが、なけなしのチップで大博打をしかけてくる孫策の崖っぷちの挑戦で秣陵・曲阿のあたりを奪われなかったら、劉ヨウは揚州牧としてもうちょっといい仕事が出来たんじゃないかと思っています。
劉ヨウは振武将軍だから配下に校尉なども任命できるはずだし、袁術が脅威になっている他には揚州にはそれほどまとまった政治勢力も無いんで、江東はつくづく新天地だなって感じます。
一方で宗教勢力の宗部から、地域を根城にする半ば山賊の名士たち、山深い山越におよぶまで、漢の中央政府の属僚の地方官とは異質な世界が連綿と揚交州境の嶺南山脈まで続いていることが分かるのです。
ところで劉ヨウには揚州刺史に任官する以前にもいろいろとエピソードがありましたよね。
漢末の揚州を皇室の権威をもとに治めようとした彼だけにエピソードのひとつひとつが面白いんですが、これも紀年がよく分かりません。
たぶん、このくらいの年代じゃないかな〜という案があったら教えてください。
散文調になってしまいましたが、北方中心の中国史の枠組みではとらえられない嶺南とか嶺東とかといった言葉で表現するところの交・広・揚・荊州の歴史は面白いですよ。
=呉の歴史でもありますし三国ファン的にも潜在的には相性があうんじゃないかと思います。
まだ自分でもまとまってないんで散文・乱文失礼ですm(__)m
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