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【3382】皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について R・F 2009/3/15(日) 18:38 初心者質問
┣ 【3384】答えになってないけど ペテン師 2009/3/17(火) 0:23 多分…
┣ 【3385】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について 巫俊(ふしゅん) 2009/3/17(火) 23:09
┣ 【3386】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について 巫俊(ふしゅん) 2009/3/17(火) 23:15
┣ 【3387】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について むじん 2009/3/18(水) 0:47
┣ 【3388】殿下? 清岡美津夫 2009/3/19(木) 19:15 多分…
┣ 【3389】ありがとうございます R・F 2009/3/22(日) 1:17 感謝♪
┃┗ 【3390】『通典』、『朱子語類』、『清史稿』ドルゴ... 巫俊(ふしゅん) 2009/3/24(火) 7:57 紹介
┗ 【3452】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について 不居見 2009/6/20(土) 14:22

【3382】皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
初心者質問  R・F  - 2009/3/15(日) 18:38 -

引用なし
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   質問です。

以前に三国志の関連本を読んでいた時、儒教的に考えて(三国演義のような)劉備の呼称を「劉皇叔」とすることはありえない、と云う文に逢ったことがあります。

儒教は序列を重んじる教えです。位階的に、兄は弟より上、叔父は甥より上になります。皇帝は至尊の存在ですから、その上を思わせる(「皇叔」のような)呼称はありえないのは当然なわけです(解説はありませんでしたが、私はそう解釈しました。間違いであればご教示をよろしくお願いします)。

で。
ふと、思ったのですが、皇帝の兄や叔父のような存在は、(記載するときや、公式の場で紹介されるときに)どのように表現されていたのでしょうか。
まさか、紹介時に「現皇帝」の「兄・叔父」とは云えませんよね。「先帝の息子、兄弟」あるいは「御一族」でしょうか。

曹操の長子である曹昴は、「豊愍王昴伝」には、曹丕の兄とはもちろんなく、長子とも記されていません。

それから、もう一つ。
皇后の父兄の場合はどうなんでしょう。これは、そのままでも良かった気がするのですが。

よろしくお願いいたします。

【3384】答えになってないけど
多分…  ペテン師  - 2009/3/17(火) 0:23 -

引用なし
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   えーこの問題には全くの門外漢ですが、皇帝と一族というのを抜きにして、親と子の地位の逆転という視点からせめてみる事にしますと、1名だけコレに当てはまりそうな人物がいますので、十中八九この人物と同じ様なことで回避したのではないかと思います。

この問題は親に対する孝と国家の指導する立場の威との板挟みが問題なのでしょう。


魏書の人物で黄朗という人物がいます
この人物は、父親が郡の小使(吏?だとおもうけど)だったのを発憤材料にして自分の出身郡の令長になった人物です。


この時、自分の父親は小使(吏?)だったのです。
黄朗は当然使役する側にいるので、官職で呼ぶべきなのですが、黄朗は姓又は字で呼んでいるとあります。
字で呼ぶのは親しい間柄でない限り無礼にあたりますのでその他大勢が使えるわけでもなく、『黄小使(吏)』といえば儒教の視点から礼儀にハズレますので、姓や字で呼んでも差し支えない親族としての特権をフル活用したのではないかと当方は考えます。


普通なら『おい!黄小使(吏)を呼んでくれないか』ってところを『おい(字)を呼んでくれないか』みたいな感じで親への孝と国家の威を示す事を両立さしたのではないかと思ったりします。

正直、何の資料も持ち合わせてないので間違っている可能性が高いのですが、黄朗のような人物がいたというは少し手掛りになるのではないでしょうか

【3385】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
 巫俊(ふしゅん) WEB  - 2009/3/17(火) 23:09 -

引用なし
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   『晋書』武帝紀に、

封 皇 叔 祖 父 孚 為 安 平 王 , 皇 叔 父 幹 為 平 原 王 ,

って感じであったんですけど、どーでしょう?


私的な感覚としましては、「儒教的」って括りでの判断が曲者というか、儒教といっても前漢の学、西晋の学、南宋の朱子学それぞれで全然違うものでしょうし、それ以前に生活習慣と原典経典とは違うものですしね。
たとえば、『論語』や『孟子』には儒教という単語は無いみたいですから、史料に無い字句の使用を避けて「儒教」という言葉は外して使わないでおこう、なんてスタンスも有り得ます。

時代を超えて体系的に中国の宗教史を観察しようとすれば、儒教という言葉や観念が有効ですが、
特定の時代や特定の人物の行動や言葉を探るのに、総体的で全時代俯瞰的な「儒教」というモチーフで判断するのはちょっと軽率ではないでしょうか。

まず「儒教」の定義なんてのが必要ですが、もちろん劉備個人の儒教観を定義してくれる史料なんて無い訳です。
同時代や別の時代の儒教の解釈を見て、当否を判断することになりますが、別の人の意見を元にするんですからどこまで信用できるかは分かりません。

私は光栄の「三國志U」と横山光輝から三国志の世界に入りましたが、五帝とか夏殷とか『山海経』とかのモチーフの原点に最大の関心があるもので、はっきり言って儒教だとこうだとか、紋切り型の解釈はあんまり採用しませんねぇ。
だって、儒教がどうだとか言ってる最大の陣営は南北朝隋唐の史家か宋代の史家なんで、ちょっと参考にし過ぎると古代史的には研究になりません。

【3386】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
 巫俊(ふしゅん) WEB  - 2009/3/17(火) 23:15 -

引用なし
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   >皇帝は至尊の存在ですから、その上を思わせる(「皇叔」のような)呼称はありえない

これも史料や解釈によって違ってくると思うので、当例について断定的に言う訳ではないのですが、
在位中の皇帝個人って「至尊」でしたっけ?
皇帝個人よりその遠祖の方が偉いに決まってるというのは、私の先入観なんでしょうか^^
ちょっと分からないです。

【3387】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
 むじん WEB  - 2009/3/18(水) 0:47 -

引用なし
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   あまり関係のない話題で恐縮ですが、北宋の時代に「濮議」という論争が起こったことがあります。

http://home.t02.itscom.net/izn/ea/chi13.html
> 英宗の父の濮王の尊号を巡る紛議。濮王は仁宗の従弟で、富弼・司馬光らは、英宗は仁宗の養子となった時点で濮王との関係が絶たれたと、伯父として扱うことを主張して王伯派と呼ばれ、韓K・欧陽脩らは、生親を伯とすることの背礼・非情を主張して皇考派と呼ばれた。皇太后の皇親案が採用されて一応解決したが、皇伯派を支持した御史台・諫官は尚も皇考派を批難した為に罷免された。

もしかしたら参考になるのではと思いましたので、紹介させていただきます。

【3388】殿下?
多分…  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/3/19(木) 19:15 -

引用なし
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    こんばんわ、清岡です。
 [#T3311]のツリーが解決されてないうちに別のことに答えるのは心苦しいのですが、わかる分を書きますね。

>ふと、思ったのですが、皇帝の兄や叔父のような存在は、(記載するときや、公式の場で紹介されるときに)どのように表現されていたのでしょうか。

 それは表現される人の官位によるのではないでしょうかね。

 皇帝の兄弟、つまり元々は皇子である人物ともなると、『続漢書』百官志に

皇子封王、其郡為國
(皇子は王に封じられ、その郡を国と為し)

とあるように、通常、王あるいは公に封じられるかと思います。
 ここらへんどのへんまで言えるのかあまり裏をとっていないのですが、[#3385]で引かれる『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。他はどうか知らないですが)。

 そのため対象となる人が王である場合、臣下による二人称では「殿下」、三人称では「○○王」、御前では「○○王●(名)」とかなるんでしょうね。


>曹操の長子である曹昴は、「豊愍王昴伝」には、曹丕の兄とはもちろんなく、長子とも記されていません。

 前述と同じように、曹丕が即位した翌年の黄初二年に、曹昴は『三国志』魏書豊愍王伝によると

黄初二年追封、諡曰豐悼公。

と豐悼公に追封され、後に王になります。いきなり王にならないのは、生者と死者との違いや、卞皇后の子と他の夫人の子との違いなんでしょうね、『三国志』魏書で見比べていくと。あと前例と後例を見ていると、その時代における宗族の待遇の違いなんかも絡んできそうですね。

 少し本題からズレますが、元の投稿での冒頭にある劉備の場合であると、有名どころでは、『三国志』蜀書先主伝での記述で、

是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」

とありますように、曹操が豫州刺史の劉備のことを「使君」、つまり刺史に対する尊称を用いています。
 時代が下り、劉備が漢中王のときは、『三国志』蜀書費詩伝を見ると、

後群臣議欲推漢中王稱尊號、詩上疏曰:「殿下以曹操父子

と費詩から「殿下」と称されています。
 『三国志』魏書公孫[王賛]伝の注に引く『呉書』では、韓馥が袁術への書上で大司馬の劉虞を「劉公」と称しています。


 書いているうちにどんどん皇帝から遠ざかってしまいますが、話を戻し、最後に、皇帝に関わる人物が儒教の枠組みでどう位置づけられるのか参考となりそうな論文をあげておきます。皇帝に対する皇后の対偶性の変遷について論じられています。

・CiNii - 天子の好逑--漢代の儒教的皇后論
http://ci.nii.ac.jp/naid/40005461874/

 通常、手に入りにくい論文と思いますが、これを収録している『東洋史研究』第61巻第2号他同学会誌が昨年11月の「東洋史研究会大会」で100円で売られていて、たまたま手元にありましたので。

【3389】ありがとうございます
感謝♪  R・F  - 2009/3/22(日) 1:17 -

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   >ペテン師 さん
>巫俊(ふしゅん) さん
>むじん さん
>清岡美津夫 さん
レスをありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありません。

>巫俊(ふしゅん) さん
>私的な感覚としましては、「儒教的」って括りでの判断が曲者というか、儒教といっても前漢の学、西晋の学、南宋の朱子学それぞれで全然違うものでしょうし、それ以前に生活習慣と原典経典とは違うものですしね。
>同時代や別の時代の儒教の解釈を見て、当否を判断することになりますが、別の人の意見を元にするんですからどこまで信用できるかは分かりません。
>儒教がどうだとか言ってる最大の陣営は南北朝隋唐の史家か宋代の史家なんで、ちょっと参考にし過ぎると古代史的には研究になりません。
指摘ありがとうございます。云われてみると、確かにそうですね。「儒教的」という表現は少し考えが足りませんでした。当時は、皇帝の兄・叔父はどう呼ばれていたか、と表現するべきでした。
しかし、そうなると、
>『晋書』武帝紀に、
>封 皇 叔 祖 父 孚 為 安 平 王 , 皇 叔 父 幹 為 平 原 王 ,
と記されていても、実際にそう呼ばれていたかどうか、の参考にならない可能性もありますね。『晋書』は唐代に作られたものですから。
そうやって考え出すと、混乱が増殖していく一方ですね。

>在位中の皇帝個人って「至尊」でしたっけ?
>皇帝個人よりその遠祖の方が偉いに決まってるというのは、私の先入観なんでしょうか^^
確かにそうですが、この場合は、生きている人限定でお願いします。遠祖ならまだしも、天帝とか孔子とかを考えると収拾が付かなくなります。
そうでなくとも、頭が混乱中です。孫ぽこさんのサイトで、儒教はタブーという言葉の意味が実感しています。自分で振った話題ながら少し後悔しています。

>ペテン師 さん
>この問題は親に対する孝と国家の指導する立場の威との板挟みが問題なのでしょう。
そうなんですね。それが本質ですね。私と公。現実と建前(思想)ともいえます。
落とし所をどこにするか、どこで折り合うか、ということでしょう。
その意味では、
>黄朗は当然使役する側にいるので、官職で呼ぶべきなのですが、黄朗は姓又は字で呼んでいるとあります。
が妥当なようですね。

>むじん さん
>あまり関係のない話題で恐縮ですが、北宋の時代に「濮議」という論争が起こったことがあります。
これは、現実と建前(思想)で折り合いが付かなかった例ですね。
けれど、儒の思想が漢より更に強固であったはずの北宋で、王伯派・皇考派という呼称で議論された、ということは現実に「皇叔」という呼び名があってもおかしくないような気もしてきます。
それとも、生者でないならよいのでしょうかね。
疑問は深まるばかりです。

>清岡美津夫 さん
>『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。
と、いうことですし。
史書の会話文で、「皇叔父」のような表現があればもう少し明解なんでしょうが。

少し混乱した文章で申し訳ありません。
ご教示頂いたことを元に、もう少しゆっくり考えて見ます。

(素性のあやしい)劉備が「劉皇叔」と呼ばれていなかったことは云えても、「皇叔」という表現自体はありえない、と断言できないことはわかりました。

いつもややこしい質問ばかりで申し訳ありません。
ありがとうございました。

【3390】『通典』、『朱子語類』、『清史稿』ドル...
紹介  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2009/3/24(火) 7:57 -

引用なし
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   ・前段として

>R・Fさん

前のレスにもちょっとだけ書いたかと思いますが、
私は演義と正史の対比がしたくて三国志いじくってるんじゃなかったりします。
演義に対して正史は・・・という手法は正史三国志のイメージ向上や宣伝の上で、非常に有効な結果をもたらしたと思いますが、
私は演義と正史の比較は他の方にお任せして、三国志の世界に深く関係している古代史や地方の風土、「蛮」といった民族や、サク融の仏教教団登場といったことなど、

変容

していく濁流のような中国の歴史に興味があります。

例えば、三国蜀の時代に彫られたとされる磨崖仏の発見は仏教伝来の歴史を塗り替えるものです。
三国時代の社会の下層には、儒教と相反する思想をもった勢力が潜在していました。
この仏教教団的エスニックグループは西晋滅亡以降の胡族社会の中で求心力を先鋭化させて、ついには匈奴系中原王朝の国教にまでなったようです。

ところで、こういった下層からの仏教理解というものが、日本の仏教伝来史にも中国史からのモデル輸入という形で広まりつつあるのをご存知ですか?
奈良県の橿原考古学研究所の所長の菅谷文則先生は中国の考古学や仏教学に詳しい方ですが、奈良県の東方の山中の宇陀地方(神武東征の拠点)に仏教伝来以降最古級になる磨崖仏があると語っておられました。

三国志を通して、中国と日本の歴史自体が塗り換わる、こういう日が必ず来ると私は思っています。

そういう訳で、私は儒教がしゃべってはいけないタブーであるとは考えていませんけど(むしろ話そうとしてる^^;)、
儒教がどういうものであるかについては非常に重要な議題であると思います。
とくに三国時代などの士大夫が書いた儒教関係の著作は、儒教の解釈自体が変わっていく様子を描き出してくれるだろうと思っていますし、
それに私が専攻していた夏殷時代には儒教というものすら存在しないどころか、陳寿が鬼道と特記した邪馬台国の卑弥呼のような巫術的、動物霊的な世界が、古代中国王朝の巫祝王の権力の源泉になっていました。

そして私は三国時代の史家が未開社会の象徴のように表現する「鬼道」が、その実合理的な中国の儒教社会の中に深く根付いた病根のようになっていると思います。
「鬼道」は張魯伝の中に出てくる言葉でもありますね。


・後段として、本題ながら簡略に。

皇兄という言葉が『後漢書』に出てくるようですね。
『東観漢記』には無いようです。
『爾雅』や『通典』も見ましたが、
『朱子語類』と『清史稿』に出てくる「皇叔」という文字列も参考になると思います。

南宋の朱子が著作した『朱子語類』では、近ごろ「皇兄」「皇叔」「皇伯」といった言葉を官職に付ける輩が増えているが・・・とあり、「退廃した」空気を批判しているのでしょうか。

清朝の歴史書である『清史稿』の世祖本紀(世祖=順治帝フリン)では、清朝の順治帝フリンの叔父であるドルゴンが「皇叔父摂政王」と呼ばれたと特記しています。
睿忠親王ドルゴン列伝によると、権力者であるドルゴンが朝臣の自分に対する態度が不遜であると思った様子があり、御史の趙開心は進み出て「叔父の上に皇の字を加えると、みな上下の序列を弁えることと思います」と進言しています。

このような例からすると、『通典』にある唐の葬制に「皇叔」が出てくることなど例外をおおいに孕みながら、「皇叔」「皇叔父」という言葉の運用に厳しい目や貴重な待遇であるという用例があることが分かると思います。
演義における劉備の代名詞「皇叔」とも関わってくるのではないでしょうか?

【3452】Re:皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について
 不居見  - 2009/6/20(土) 14:22 -

引用なし
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   ▼R・Fさん:

既に終わった話題かもしれませんが、たまたま自分の質問した曹沖を調べていてたまたま見つけたので一言。

三ゲΣd舛琉「C箸海蹐痢懺歌沱C如∧個(曹丕)が曹昂のことを、"家兄孝廉"と呼んでいますね。

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