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【3382】皇帝の兄・叔父等の表記、紹介について R・F 2009/3/15(日) 18:38 初心者質問

【3389】ありがとうございます R・F 2009/3/22(日) 1:17 感謝♪
┗ 【3390】『通典』、『朱子語類』、『清史稿』ドルゴ... 巫俊(ふしゅん) 2009/3/24(火) 7:57 紹介

【3389】ありがとうございます
感謝♪  R・F  - 2009/3/22(日) 1:17 -

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   >ペテン師 さん
>巫俊(ふしゅん) さん
>むじん さん
>清岡美津夫 さん
レスをありがとうございます。返事が遅れて申し訳ありません。

>巫俊(ふしゅん) さん
>私的な感覚としましては、「儒教的」って括りでの判断が曲者というか、儒教といっても前漢の学、西晋の学、南宋の朱子学それぞれで全然違うものでしょうし、それ以前に生活習慣と原典経典とは違うものですしね。
>同時代や別の時代の儒教の解釈を見て、当否を判断することになりますが、別の人の意見を元にするんですからどこまで信用できるかは分かりません。
>儒教がどうだとか言ってる最大の陣営は南北朝隋唐の史家か宋代の史家なんで、ちょっと参考にし過ぎると古代史的には研究になりません。
指摘ありがとうございます。云われてみると、確かにそうですね。「儒教的」という表現は少し考えが足りませんでした。当時は、皇帝の兄・叔父はどう呼ばれていたか、と表現するべきでした。
しかし、そうなると、
>『晋書』武帝紀に、
>封 皇 叔 祖 父 孚 為 安 平 王 , 皇 叔 父 幹 為 平 原 王 ,
と記されていても、実際にそう呼ばれていたかどうか、の参考にならない可能性もありますね。『晋書』は唐代に作られたものですから。
そうやって考え出すと、混乱が増殖していく一方ですね。

>在位中の皇帝個人って「至尊」でしたっけ?
>皇帝個人よりその遠祖の方が偉いに決まってるというのは、私の先入観なんでしょうか^^
確かにそうですが、この場合は、生きている人限定でお願いします。遠祖ならまだしも、天帝とか孔子とかを考えると収拾が付かなくなります。
そうでなくとも、頭が混乱中です。孫ぽこさんのサイトで、儒教はタブーという言葉の意味が実感しています。自分で振った話題ながら少し後悔しています。

>ペテン師 さん
>この問題は親に対する孝と国家の指導する立場の威との板挟みが問題なのでしょう。
そうなんですね。それが本質ですね。私と公。現実と建前(思想)ともいえます。
落とし所をどこにするか、どこで折り合うか、ということでしょう。
その意味では、
>黄朗は当然使役する側にいるので、官職で呼ぶべきなのですが、黄朗は姓又は字で呼んでいるとあります。
が妥当なようですね。

>むじん さん
>あまり関係のない話題で恐縮ですが、北宋の時代に「濮議」という論争が起こったことがあります。
これは、現実と建前(思想)で折り合いが付かなかった例ですね。
けれど、儒の思想が漢より更に強固であったはずの北宋で、王伯派・皇考派という呼称で議論された、ということは現実に「皇叔」という呼び名があってもおかしくないような気もしてきます。
それとも、生者でないならよいのでしょうかね。
疑問は深まるばかりです。

>清岡美津夫 さん
>『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。
と、いうことですし。
史書の会話文で、「皇叔父」のような表現があればもう少し明解なんでしょうが。

少し混乱した文章で申し訳ありません。
ご教示頂いたことを元に、もう少しゆっくり考えて見ます。

(素性のあやしい)劉備が「劉皇叔」と呼ばれていなかったことは云えても、「皇叔」という表現自体はありえない、と断言できないことはわかりました。

いつもややこしい質問ばかりで申し訳ありません。
ありがとうございました。

【3390】『通典』、『朱子語類』、『清史稿』ドル...
紹介  巫俊(ふしゅん) WEB  - 2009/3/24(火) 7:57 -

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   ・前段として

>R・Fさん

前のレスにもちょっとだけ書いたかと思いますが、
私は演義と正史の対比がしたくて三国志いじくってるんじゃなかったりします。
演義に対して正史は・・・という手法は正史三国志のイメージ向上や宣伝の上で、非常に有効な結果をもたらしたと思いますが、
私は演義と正史の比較は他の方にお任せして、三国志の世界に深く関係している古代史や地方の風土、「蛮」といった民族や、サク融の仏教教団登場といったことなど、

変容

していく濁流のような中国の歴史に興味があります。

例えば、三国蜀の時代に彫られたとされる磨崖仏の発見は仏教伝来の歴史を塗り替えるものです。
三国時代の社会の下層には、儒教と相反する思想をもった勢力が潜在していました。
この仏教教団的エスニックグループは西晋滅亡以降の胡族社会の中で求心力を先鋭化させて、ついには匈奴系中原王朝の国教にまでなったようです。

ところで、こういった下層からの仏教理解というものが、日本の仏教伝来史にも中国史からのモデル輸入という形で広まりつつあるのをご存知ですか?
奈良県の橿原考古学研究所の所長の菅谷文則先生は中国の考古学や仏教学に詳しい方ですが、奈良県の東方の山中の宇陀地方(神武東征の拠点)に仏教伝来以降最古級になる磨崖仏があると語っておられました。

三国志を通して、中国と日本の歴史自体が塗り換わる、こういう日が必ず来ると私は思っています。

そういう訳で、私は儒教がしゃべってはいけないタブーであるとは考えていませんけど(むしろ話そうとしてる^^;)、
儒教がどういうものであるかについては非常に重要な議題であると思います。
とくに三国時代などの士大夫が書いた儒教関係の著作は、儒教の解釈自体が変わっていく様子を描き出してくれるだろうと思っていますし、
それに私が専攻していた夏殷時代には儒教というものすら存在しないどころか、陳寿が鬼道と特記した邪馬台国の卑弥呼のような巫術的、動物霊的な世界が、古代中国王朝の巫祝王の権力の源泉になっていました。

そして私は三国時代の史家が未開社会の象徴のように表現する「鬼道」が、その実合理的な中国の儒教社会の中に深く根付いた病根のようになっていると思います。
「鬼道」は張魯伝の中に出てくる言葉でもありますね。


・後段として、本題ながら簡略に。

皇兄という言葉が『後漢書』に出てくるようですね。
『東観漢記』には無いようです。
『爾雅』や『通典』も見ましたが、
『朱子語類』と『清史稿』に出てくる「皇叔」という文字列も参考になると思います。

南宋の朱子が著作した『朱子語類』では、近ごろ「皇兄」「皇叔」「皇伯」といった言葉を官職に付ける輩が増えているが・・・とあり、「退廃した」空気を批判しているのでしょうか。

清朝の歴史書である『清史稿』の世祖本紀(世祖=順治帝フリン)では、清朝の順治帝フリンの叔父であるドルゴンが「皇叔父摂政王」と呼ばれたと特記しています。
睿忠親王ドルゴン列伝によると、権力者であるドルゴンが朝臣の自分に対する態度が不遜であると思った様子があり、御史の趙開心は進み出て「叔父の上に皇の字を加えると、みな上下の序列を弁えることと思います」と進言しています。

このような例からすると、『通典』にある唐の葬制に「皇叔」が出てくることなど例外をおおいに孕みながら、「皇叔」「皇叔父」という言葉の運用に厳しい目や貴重な待遇であるという用例があることが分かると思います。
演義における劉備の代名詞「皇叔」とも関わってくるのではないでしょうか?

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