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佐軍司馬・孫文台(孫氏からみた三国志17) |
031010
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<<対黄巾防衛戦(孫氏からみた三国志16) 中央付近で大変な兵乱が起きていたんだけど、孫さん家にも影響が出てきていた。過去2回まで後漢書中心にお伝えしていたけど、今回の前半はまたまた三国志の呉書中心。 その動きを書く前に、おめでたなことを書いておこう。 (というのも、何年に起きたかはわかるけど、何月に起きたかがわからないからなのでして…) 光和七年or中平元年、つまり西暦184年のできごと。元号の「中平」については話の展開上、全然、説明してないけど、しばらく…というかかなり待って下さいね。 話戻して、何が起こったか、もう引っ張らずに率直に書くと…… 孫堅(字、文台)と呉夫人の間に、四人目の子どもが生まれる1)。男の子だ。 名は「翊」、また「典略」という史書によると「儼」ともいうらしい2)。容姿についてはわからないけど、性格は兄の孫策に似ていたそうな(生まれたばかりの赤ん坊の説明に、性格を書くのは変なんだけど・汗)1) 運悪く、大変な年に生まれてしまった子だけど、この夫婦にとって、先の三人の子ども同様、成長が楽しみだったんだろう。 さて、話を早速、戻してしまって申し訳ないけど、黄巾の兵乱について。 前回、「攻め」の軍の指揮の一人として、朱儁(字、公偉)が右中郎将って役職に選ばれたって話をした。ちなみに「右中郎将」は後漢書によると比二千石のお給料とのこと3)。それまで六百石の諫議大夫(+都亭侯、こちらのページを参照)だったんで、まずまずのもの。 指揮官に選ばれてすぐ軍を動かせるわけじゃなく、まず手を着けないといけないのは人事面だろう。多分、公偉はまず自分の部下選びから始めたと思う(←思いっきり憶測・汗)。 その中には、後に、文才や書で有名になる張超(字、子並)が別部司馬という役職をしていたそうな4)。 そして、どういういきさつがあったのかわからないけど、その中に文台も入っていた。 なんでも、公偉が文台を自分の佐軍司馬(役職の名前)にしたいと上層部へ要請したとのこと5)。同じ浙江流域に住んでいるから(>>参照)、公偉は文台の噂を聞いていたんだろうか? それとも許生の兵乱のおり(>>参照)にあったことがあるんだろうか? と現代の我々はあれこれ想像してしまう。 ともかく、佐軍司馬に選ばれ、文台は公偉の元、京師へとおもむくことになる。司馬とは、軍の一つの役職。「佐軍司馬」として明記してないからわからないけど、他の「司馬」を見ると、給料は千石、比千石、ぐらいなのかな。まぁ、県丞の二百石030223-4)よりは出世していることは確か。もっとも戦時の昇進だから、戦が終わり、平時になるとどうなるかは別問題なんだろう。 普通、どこかへ泊まりありで出かけるとき、着替えを用意したりと、みじたくする。 だけど、「佐軍司馬」ともなると、ただの人のみじたくとは訳が違う! それは人の募集。文台は、旅の商人や、 淮水や泗水流域(ともに川の名前)の精兵を募集し、その身を寄せた数、千人にのぼった5)。 やはり、戦には武器や食糧が要りよう。それで商人が必要だったのかな。あと、このページの下にある地図を見てみると、文台のいた下県は泗水にしか面してない。だけど、文台の前任地(おなじく県丞の役職)、県には淮水が面していることから、前任地のつてを頼って募集をかけたのかなぁ、と想像してしまう。 また、募集をかけずとも、文台と同郷の若者は付き従い、そして下の者はみんな、従うことを望んだそうな5)。あぁ、やっぱり文台、慕われているんだ……あ、もてなしたから、慕われたなんて言わない、言わない(>>参照) それと家族への配慮も忘れてない。江表伝によると、黄巾の兵乱で家族を下県においていくのは危険と感じたのか(ここらへん、はっきりとした理由は書かれていない)、文台は家族を寿春に引っ越しさせている6)。寿春に頼れる親戚でもいたんだろうかね。 一方、後漢書皇甫嵩伝によると、公偉の方は、皇甫嵩と共に軍勢を集めていた。五つの校(指揮者?)、それに三河(京師のある河南尹、その隣にある、河内郡、河東郡、この三つ)の騎兵、さらに精鋭を募集し軍を編成していた。そして、多分、文台の軍も合わせてなんだろうけど、最終的には四万人余りまでになっていた031004-2)。 光和七年(西暦184年)三月、いよいよ、潁川郡方面へ軍を進めることになる031004-4)。 |
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)
そして、庚子の日のこと(4月26日)。こちらは後漢書本紀および朱儁伝から7)。 具体的には冀州(鉅鹿郡、安平國、甘陵國など)、豫州(潁川郡)の黄巾が兵乱を起こしているよ、と今まで書いたけど、また、黄巾の兵乱が具体的に歴史に現れた。 それは荊州の南陽郡。 そこの黄巾の張曼成は、「神上使」と自称し、数万人を集めていた。そして今回の兵乱で、南陽郡の太守の貢は張曼成に殺されてしまう。 黄巾の脅威は確実に天下を乱し始めていた。 急げ、官軍! がんばれ、我らが文台!
1) 四人目の子ども。正確には四人目の子どもじゃないかもしれないけど(諸説ある)、「孫氏からみた三国志」の話の進め方でそうなっている。生年はある年齢の出来事から逆算している。以下、ネタバレだけど、引用元を書いておく。「孫翊字叔弼、權弟也、驍悍果烈、有兄策風。太守朱治舉孝廉、司空辟。建安八年、以偏將軍領丹楊太守、時年二十。」(「三國志卷五十一 呉書六 宗室傳第六」より)
2) またの名を「儼」。本文中で「典略」と書いてるけど、この書は残っていない書で例によって、三国志の裴松之注から。「典略曰:翊名儼、性似策。」(「三國志卷五十一 呉書六 宗室傳第六」の注より。) 3) 右中郎將。なんか、面白いこと、書いていたら、書こうと思ったけど、特に書いてないなぁ。比二千石はどれくらいなんだろ? 私は、二千石>中二千石>比二千石の大小関係だと思うけど、漢字の感じ的に。「右中郎將、比二千石。」(「後漢書志第二十五 百官二」より) |
4) 張超。同姓同名が二人ほど居たと思うので、注意が必要。「張超字子並、河鐚莫β]人也、留侯良之後也。有文才。靈帝時、從車騎將軍朱儁征黄巾、為別部司馬。著賦・頌・碑文・薦・檄・牋・書・謁文・嘲、凡十九篇。超又善於草書、妙絶時人、世共傳之。」(後漢書卷八十下 文苑列傳第七十下)。ちなみにこの後の黄巾エピソードでこの人、再度、ちょっと出てくる。
5) 公偉と文台の主従関係、さらに文台がなしたこと。「漢遣車騎將軍皇甫嵩・中郎將朱儁將兵討撃之。儁表請堅為佐軍司馬、郷里少年隨在下者皆願從。堅又募諸商旅及淮・泗精兵、合千許人、與儁并力奮撃、所向無前。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」より) 6) 孫さん一家のお引っ越し。江表伝といっても例によって三国志の裴松之注から。「江表傳曰:堅為朱儁所表、為佐軍、留家著壽春。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」の注より。) 7) 南陽郡の黄巾。日付は本紀から。なんで、こんな細かい日付がぽんとでてくるんだって感じだけど、臨場感は出ていていい感じ。脚注031004-4)の続き。「庚 子、南陽黄巾張曼成攻殺郡守貢。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)。あと、朱儁伝の方。「時南陽黄巾張曼成起兵、稱「神上使」、衆數萬、殺郡守貢、屯宛下百餘日。」。ちなみに宛は地図上の南陽郡の区域で示した緑の丸のところ。 |
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