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呉郡司馬・孫文台(孫氏からみた三国志9) |
030223
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<<会稽は傷ついて…(孫氏からみた三国志8) 会稽でおこった一万人規模の兵乱は、当然のことながら、会稽郡の官軍が動いた。 それから、隣の隣の郡である丹陽郡の軍も動いた。 では、お隣さんの呉郡は何もしなかったの?! ってことになる。 |
実はここに文台(孫堅)が関わってくることになる。 その前に文台の年齢について決めておきたいことがある。 文台の生まれた年はいろんな説がある。大体、西暦155年〜157年といったところ。「いろんな説がある」ってだけで止めておけば良いんだけど、はっきりした年齢がわからないと、何かと語りにくい。 というわけで、このシリーズでは西暦157年生まれということにしておく。 理由は単に小説「孫氏三代」の設定に合わせただけのこと。深い考察は今のところ、ない1)。 |
で、これらの生年を元に今までの出来事をまとめてみると。 熹平元年(西暦172年)十月
![]() 熹平元年十一月 許生・許昭親子、句章を拠点に会稽郡で兵乱をおこす。臧旻&陳寅が率いる丹陽郡の軍勢に討伐される。 許昭、再び兵乱の軍を結集。 熹平二年(西暦173年) 尹端率いる会稽郡の軍勢が許昭の軍勢に破れる。朱儁、裏工作で、尹端の罰を軽くする。 孫堅(字、文台)、海賊・胡玉を計略で敗走させる。 熹平三年(西暦174年)冬 臧旻・陳寅が率いる丹陽郡の軍勢、盜賊の苴康の軍勢を攻め、数千級の首をあげる。 熹平二年の文台の海賊退治について。 四回前に語ったんだけど、実は一つ、重要なことを語り忘れ。三國志呉書に書いてある。 海賊をこんな素敵なやり方(>>参照)で追っ払って、誰からもスカウトの声がかからないわけがない。県府(県の役所)から召され昇進する2)。 その役職は仮の「尉」。主に盗賊を取り締まったりする3)。今でいう警察署長みたいなものかなぁ。給料は二百石4)。でも仮だから安いのかな。 |
どちらが先かわからないけど、前々回、前回と書いたように、同じ時期に隣の郡では許昭の兵乱が起こっていた。 そして、年を改めた熹平三年(西暦174年)。 丹陽郡が援軍を出したから、じゃ呉郡も……と言ったかどうかはさだかじゃないけど、とにかく、呉郡も動き出す。 郡の中の武官はいろいろあるけど、その中に「司馬」というのがある。 文台はこの司馬に任命される2)。給料は六百石4)。 おぉ、約一年で給料3倍! スピード出世じゃないか、文台! (まぁ、多分、戦時中だけの一時的な役職と思うけど・汗) そんな出世で奮起したかどうかは知らないけど、文台は精勇を募集すること、千人あまり。 その軍勢で、許昭討伐の手助けをしにいく2)。 資治通鑒によると、熹平三年の六月〜十月のことらしい5)。 |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版) 但し、画面上のルートや戦闘マークの位置に根拠はありません
そして迎えた十一月。 臧旻&陳寅の軍勢は許生の軍勢を会稽郡でやぶり、斬ったのだった6)。 三年目でようやく許生・許昭親子の兵乱は終焉を迎えることになる。 陳寅の行方はわからないが、臧旻はおそらくこのときの手柄で、丹陽太守に昇進したんだろう7)。 そして、そんな臧旻はきっちり戦に参加した人の手柄をみていたようで、文台のことを書にしたため、中央へ報告する。 やがて、文台は鹽涜丞になるよう、詔が下る2)。 「鹽涜丞」とは徐州廣陵郡鹽涜県8)の丞(副官)のこと。 給料は二百石だから4)、尉と同じだけど、丞は県で二番目にえらいのだから、平和時の役職だった県の仮の尉から考えると、出世と言えるだろう。 |
そして、もう一つ大事なこと。 よその土地の官職に就いたんだから、お引っ越しってこと。 文台の一家は浙江のほとりをはなれ、さらに北の大河、江水を越え、移り住むのだった。
1) もっと突っ込んだ話、小説「孫氏三代」でなんで、文台の生年を西暦157年にしたか? って話。おそらく筑摩書房「世界古典文学全集24c 三国志III」(いわゆる三国志邦訳本)の巻末についている年表を鵜呑みにしてそのままだったんだろう(汗) <<戻る
2) 今回、参考にした三國志の記述をここでまとめて、引用。「由是顯聞、府召署假尉。會稽妖賊許昌起於句章、自稱陽明皇帝、與其子詔扇動諸縣、衆以萬數。堅以郡司馬募召精勇、得千餘人、與州郡合討破之。是歳、熹平元年也。刺史臧旻列上功状、詔書除堅鹽涜丞、數歳徙 ![]() ![]() ![]() 3) 「尉」。(縣で)「丞各一人。尉大縣二人、小縣一人。本注曰:丞署文書、典知倉獄。尉主盜賊。」(後漢書志第二十八 百官五より)というようにおおきな県(縣)で尉は二人、小さいので一人といった構成。主に盗賊を取り締まる。 <<戻る 4) 給料六百石&給料二百石。「尚書・中謁者・謁者・黄門冗從・四僕射・諸都監・中外諸都官令・都候・司農部丞・郡國長史・丞・候・司馬・千人秩皆六百石」と「縣・國三百石長相、丞・尉亦二百石」(ともに東觀漢記卷四 百官表より)。って東觀漢記のことをよく知らないまま、引用元に使ってますが(汗)。なんでも後漢書関連で最古のやつなんだけど、残っている部分が少ないとか。全部、残っていたら、正史扱いになっていたとかいう噂……って確実な情報は別口で調べてください。 <<戻る 5) 資治通鑒での文台の記述。「呉郡司馬富春孫堅召募精勇、得千余人、助州郡討許生。」(資治通鑒卷第五十七より)。この書物は編年体なので、本文に書いたとおり、出来事のだいたいの年月が浮き彫りになる。資治通鑒では文台初登場。また「呉郡司馬」と言い切っているのはこの書ぐらいかなぁ <<戻る 6) 兵乱の顛末。「十一月、楊州刺史臧旻率丹陽太守陳寅、大破許生於會稽、斬之。」(後漢書卷八孝靈帝紀第八より)。許生の名しかないので、許昭はどうなったんだ? ってツッコミを入れたいところ。あ、楊州は揚州のことね、多分(微妙に漢字が違う) <<戻る 7) 臧旻の昇進。「旻有幹事才、達於從政、為漢良吏。初從徐州從事、辟司徒府、除盧奴令、冀州舉尤異、遷揚州刺吏、丹陽太守。是時邊方有警、羌胡出寇、三府舉能、遷旻匈奴中郎將。」(謝承後漢書卷二臧旻傳より)。元々、揚州刺吏で、丹陽太守になったってんだから、前後関係からこの手柄によるものだと考えているけど、ちがうかな。 <<戻る 8) 鹽涜県の所在。後漢書志第二十一郡國三より。毎度、お世話になってます。 <<戻る |
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