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会稽は傷ついて…(孫氏からみた三国志8) |
030222
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<<来たれ、丹陽軍団!(孫氏からみた三国志7) 年が明けて、熹平二年(西暦173年)。 一度は討伐されたとはいえ、まだ、許昭の兵乱は会稽郡でなお続いている。 で、実はまだ文台が登場しない(「孫氏からみた三国志」なのに!)。後に文台にとって重要人物になるある人を準主役(?)として今回の話に迎えたい。 |
その人は朱儁。字は公偉という。 後漢書によると、句章より上流側(というより西と言った方が正確)にある上虞県出身の人。県の門下書佐5)という役職をしていたとき、家財をなげうって、同郡出身の人を助けたことが評判となり会稽郡の役職につくことなった人(かなり省略の説明ですみません)6)。 反乱が起こったときは、会稽郡で主簿7)という役職についていた。ちなみに会稽郡の郡府(役所)は山陰県というところにあって8)、位置関係は西から山陰、上虞、句章というふうになる9)。位置的に結構、離れているし、主簿は武官ではなく文官なので、おそらく直接的に戦に関わることはなかったんだろう(後方支援? まぁ、それほど危なくないかと)。 ところが公偉は戦に大きく巻き込まれることになる。 それは兵乱が起こってから年を改めた、熹平二年(西暦173年)のこと。例によって後漢書より。 会稽郡で兵乱が起こっていたら、黙っていないのは当然、郡の一番、偉い人、太守。このときは尹端(字不明)っていう人が太守。公偉を主簿の役職につけた人だ。 当然、太守の尹端は兵乱を討伐しようとしたんだけど、見事に敗北。 |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)
で、尹端は罪に問われることになる。 郡を束ねる行政区域が州であることは以前、書いたんだけど(>>ここ)、その州(の政府)が掲げる、尹端への刑は「棄市」。棄市と書いても何のことかわからないだろうけど、刑を加えて市場にその人を棄てること。さらに、何の刑? って思うけど、なんと、死刑のことなのだ10)。 戦争に敗北したとは言っても何もそこまでしなくても……と思ったのは現在の我々だけじゃなく、公偉も思ったのだろうか、彼はすぐ行動に出る。 公偉は密かに数百金を持って京師へと向かった。 こう書くとわけわかんないだろうから、立ち戻って説明する。 刑が実際に執行されるのは、皇帝から許可を貰わないといけない。その罪の刑は「棄市」にあたるとした州(の政府)は皇帝に許可を貰おうとする。つまり上奏ってやつ11)。 まず皇帝のいる京師まで上奏文を届けないといけないんだけど、そこに目を付けたのが公偉なのだ。ちなみに京師とは洛陽の尊称(だと思う)。 数百金はよくわからないけど、黄金数百斤のことかねぇ。一斤は222.73gらしい12)。 公偉は京師につくと、章吏(上奏文関係の役人)に賄賂、数百金をわたし、州からの上奏文を削る13)。 そのおかげで尹端は刑を軽くされる。つまり、死を免れたってこと。 |
なるほど、公偉は自らの財産を投げ出して、自らの手を汚してまでも、太守の命を助けたってことか。きっと、公偉は自分の才能を見いだしてくれて主簿に取り立ててくれた尹端のことをとても恩義に感じてたんだろうと想像してしまう。 で、この戦時下の忠臣物語はそれっぽい話の終わり方をする。 尹端は罪が軽くなって喜んだものの、その理由を知ることはなかった。そして公偉もついにその理由を言うことはなかった、と14)。 で、しんみりして本筋を忘れそうになるけど、実は会稽郡の兵乱は何も変わってない。 では、兵乱はどうなったか、年がさらに改まって熹平三年。いよいよ官軍の反撃が開始される。 次回、いよいよ文台の登場!
5) 門下書佐。調べたけど、よくわからなかった職。おそらく県の書記のことかと。 <<戻る 6) はい、ここではもうちょい詳しく説明しますです。引用元は後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一。朱儁(字、公偉)は幼い頃から母と二人きりだった。家の生計は母の絵(多分、刺繍かなんか)でたてていた。公偉は孝養(親に孝行して養うこと)で名を知られるようになり、門下書佐となった。同郡出身の周規という人が公府(役所)に招かれて、行くときに、郡の金庫から銭百万を冠の費用を借りて、冠と ![]() 7) 主簿。角川新字源(三二五刷)によると、「官名。記録や文書をつかさどる役」だそうです。さっきと合わせて、文官街道まっしぐらな公偉さんでした。 <<戻る 8) 郡府のありか。単に後漢書志第二十二郡國四の會稽郡のところの筆頭になる県が山陰だったからです。経験則みたいなの。もしかして違うかも。あと、そこにある「會稽郡 秦置。本治呉、立郡呉、乃移山陰。」という文。会稽郡。秦が置く。本来は呉(県)におさめていた。呉(県)に郡を立て、そして(会稽郡を)山陰に移すという訳になるんでしょうかね <<戻る 9) 地理関係。今までもそうだったんだけど、譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第三冊三国・西晋時期」(中國地圖出版社出版)を参考にしている。この前、某図書館にこのシリーズが全巻そろっててびびった。 <<戻る 10) 棄市。あまり字引に頼るのはお勧めできませんが、ここもとりあえず角川新字源(三二五刷)で引いてる………字引って数千年の事柄がごっちゃになっているから鵜呑みにしたら、危険。この間、「榻」ってしらべると、すべて腰掛けって訳になってた。あんね、こしかけというと、椅子のイメージが強すぎなんですわ。だから、三国志の時代の中国に椅子があるような印象を与えるんやけどなぁ。じゃ、あんたはなぜ、ここで字引、つこうてんねんって話やけど、単に引用元、さがすの、面倒だったってことですわ。禮記(こんな字やったっけ?)から引っ張ってきて、近い時代のことを引用すればいいんやけど、たまには、ええかなぁなんておもったりしてんねん。 <<戻る |
11) 上奏と制可(許可)。このへんのことは私の手元の資料だと籾山明/著「漢帝国と辺境社会 中公新書1473」(中央公論新社1999年4月25日刊 ISBN:4-12-101473-1)の146ページ。ただ、刑のことでもこの形式なのかは不明。 <<戻る 12) またまた角川新字源(三二五刷)より。単位換算は今のところ、これぐらいしか知らない。ちゃんとした情報ソースは何なんでしょう。だれか教えて! <<戻る 13) 削る。当時は紙は発明されていたけど、まだまだ普及していないから、木簡竹簡のたぐいだったんだろう。だから文字を訂正しようと思ったら、文字通り「削る」わけでして、このことは手元の資料だと、沈従文ら/編「中国古代の服飾研究 増補版」(京都書院1995年5月1日発行 ISBN:4-7636-3258-2)の150ページの「34 漢『講学図』画像傳」のところが参考になる。ちゃんと「削」とか「書刀」とか呼ばれる文字を削る道具の絵があるのだ。 <<戻る 14) これらのことは後漢書卷七十一皇甫嵩朱儁列傳第六十一にのってることです。公偉が京師にいく話は他にもあって、後漢紀にもあるんですけど、太守が徐珪ですし、太守は公偉が京師に行ったこと知ってますし、州の刺客が公偉を殺そうとしてますし……なので、まるっきり別の話と考えた方が良さそうです。気が向いたら、このシリーズで取り上げます(って孫氏からまた遠のく・汗) <<戻る |
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