|
>> 列侯の食む県を侯国とする。秦の爵位十二等を継承して徹侯としたもの。金印紫綬。功績ある者を賞す。功績の大きい者は県を食み、小さい者は郷・亭を食む。その食むところの官吏・民衆を臣下にすることができる。のちに武帝劉徹の諱を避けて列侯と改名。
>> 国ごとに相一人を置き、その秩禄は本来の県と同じ。民衆統治をつかさどることは県令・県長と同じで、(侯に)臣従しない。ただ租税を侯に納めるだけで、(納入額は)戸数によって限度がある。その家臣として家丞・庶子を一人づつ置いた。侯の側にはべり、家事を取り仕切る。列侯にはもともと行人・洗馬・門大夫がいて合計五人の官だったが、中興以来、食邑千戸以上なら家丞・庶子を一人づつ置き、千戸未満なら家丞・行人・洗馬・門大夫を置かなかった。
>
>領土をもらったら、その住民を臣下にできたようです。ところが補佐役である相は侯に臣従せず、それでいて県令同様の地方行政を行うわけですから、列侯の行政権はほとんどなかったということでしょう。相が列侯に臣従しないというのは、建前では列侯の師匠なので目上扱いにするということですが、本音では列侯から行政権を取り上げるということですよね。そして相の任免権があったのは中央政府でした。
おおっサンクスです。問題は兵を雇うほどの租税を得ることが出来たか?ですが雰囲気的になさそうな感じ・・・。
>呂布の部下には河内出身者がいたようですが、それは呂布が河内の温を賜ったことと関係しているんじゃないかと思ってます。王の生活については曹植伝にも記載があります。
なるほど・・・。人材としてならあり得ますね。それにしても、人材を活かすにも、軍権なり統治権なりがない事には、活かし様がない訳ですから、二代目・三代目あたりになって、過去の先代の功績によって侯に封じられたとあるだけの人物の場合、実権はなかったと見て良いですかね?
|
|