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諸王についても『続漢書』百官志に記述があります。簡単にいきます。
項羽が滅ぼされると、漢朝はその諸王の制度を引き継いだ。官職には太傅・丞相・御史大夫のほか何人かの卿がいて、それぞれ二千石。ちょうど朝廷のようである。国家は丞相だけを派遣し、御史大夫以下は全て国王が任命する。
景帝の時代、呉楚七国の乱を反省し、諸王が民衆を統治できないように、内史を民衆統治に当たらせた。そして丞相を相と改称し、御史大夫・廷尉・少府・宗正・博士の官職を廃止した。武帝は中央政府の内史(京兆尹)・中尉(執金吾)・郎中令(光禄勲)の官名を改めたが、諸国では以前通りであった。しかし任命は朝廷がすることになった。成帝の時代になると内史を廃止し、民衆統治は相に委ねた。太傅は傅と改称された。
中尉(執金吾にあたる)は盗賊の取り締まり。郎中令(光禄勲)は宿衛。僕(太僕)は車・御者の管理。治書(尚書)。大夫は皇帝からの使者を出迎えたり、京師へ年賀に出たり、諸国への使者になったりする。みな持節だったが後に節は与えられなくなった。謁者は冠長冠(脱文あり?)を管理する。礼楽長は楽人を管理。衛士長は衛士を管理。医工長は医薬を管理。永〓長は宦官で、宮中の女中を管理。祠祀長は祭祀を管理。郎中。
よく分からないですね。相が民衆統治にあたったという個所の注に、大司空何武が「内史を廃止し、相を太守のごとく、中尉を都尉のごとくせよ」と上奏してから、中尉は王の相と権力を争うようになり、上奏するときいつも不和であった、とあります。
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