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▼輪っかさん:
たまたま見かけたので横から割り込ませていただきます。
史書に「a討b、斬b」といった書き方がなされている場合、たいがい
「自陣営の武将が勝利し敵大将の首を取っ(て本国に伝送し)た」
と言う事を表すテンプレです。
「斬」は「斬り殺した」ではなく「首級を挙げた」の意味と解釈するとよいかと思います。
また、『三國志』巻十七の「短兵接刃」ですが、
これも、史書が乱戦となったことを記述する際の慣用句ですね。
さらには、大将自ら敵大将を討ち取るなんてのはまず有り得ませんから
万一そういう事があったなら、「自」「手」と言った字を足して
みずから、てずから、という事を強調するものです。
ここにそういう字が無いのは、「黄忠自らが一騎駆けに夏侯淵を斬った」
なんて可能性はございません、と史書がきっぱり否定しているも同じです。
「奈良の大仏を作ったのは誰?」「大工さん」なんてなぞなぞがありますが
指揮した人物の手柄を記すのが史書であって、実際にやった個人は問題ではないのです。
さらに言うと、部下が亡骸を命がけで連れ帰る、という事態があったなら
敗北を覆い隠す意味でも、名前を明記しその忠義を顕彰するでしょう。
というか「斬」とある以上、少なくとも首は蜀軍の手に落ちていますね。
劉備軍は張[合β]の守る東陣営に夜襲をかけたが阻まれたため
(「備不能克」は、「劉備は勝てなかった」です)、搦め手から火計を仕掛けた。
夏侯淵は劣勢となった[合β]を救援すべく手勢を分け、少数で消火に向かう途中、
別道から進入していた劉備軍ともろにはち合わせてしまい、大混戦に陥った。
黄忠は果敢に隊を率い、抵抗する夏侯淵と趙[禺頁]の首を挙げ、成都に伝送した。
清岡さんの掲げた資料をまとめるとだいたいこういうことではないかと。
その後に首がどうなったかはちとわかりませんが、ある程度名のある人物であれば
そう粗略には扱わなかったんじゃないかな、とは思います。
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