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▼仁さん:
>前々から気になっていたのですが、
>曹操の出身は沛国[言焦]県、許チョの出身は[言焦]郡[言焦]県となっていますが、学研の歴史群像シリーズでは、許チョの出身も「沛国」と統一され、その地図も彼らの名前が一緒に並んでいます。同郷なら、同じ魏の伝ですし、なぜ国と郡の名が違うのか疑問に思いました。
>当時の郡県制度もまだあやふやなのですが、国と郡の違い、当時の沛国と[言焦]郡がどうなっていたか知りたいのですが。
>みなさんよろしくお願いします。
私の手元の三国志では、許チョの出身、[言焦]国になってました(汗)。
国は、王がいる行政区域で、王が亡くなって跡継ぎがいなければ、国自体、なくなって、郡(県)にかわります。
例、光和七年(西暦184年) 「下[丕β]王意薨、無子、國除。」(後漢書本紀)ということで、下[丕β]国から下[丕β]郡にかわりました。
なので、今回のケースもそれに似ているのかな、と思ったんですが、違いました。
後漢末には元々、沛国があったんですが、どうやら、曹操が沛国から[言焦]郡をつくったようです(いつかは調べきれなかったんですが)。晋書地理志に
魏武分沛立[言焦]郡
という文がありました(「魏武」とは曹操のことです)。この郡に[言焦]県があることから、このとき、[言焦]県の所属が沛国から[言焦]郡にかわったかと。
国と郡がかさなるようなことは私はきいたことないので、三国志ができる段階、あるいはできた後にごっちゃになったのかなぁと想像しています。
許チョの出身は沛国[言焦]県かなぁ、と。
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