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清岡さん、丁寧なご回答ありがとうございます!
>元々、布は実物貨幣として使われていて、秦代の法律「金布律」では長さ八尺×幅二尺五寸の布=銭十一という換算率が記されています。
> 時代が降って、前漢、新でも実物貨幣として使われていたようで、その証拠に銅銭以外にも布帛が官吏に月俸として支払われることがありました。下記の文物圖象研究室資料庫で「祿帛」、「奉帛」、「祿大」で検索すると、居延漢簡と居延新簡に帛や大黄布で支払っている事例がいくつか出てきます。
>
>・中央研究院歴史語言研究所文物圖象研究室資料庫檢索系統
>http://saturn.ihp.sinica.edu.tw/~wenwu/search.htm
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> 他方、衣服は別に支給されており(例えば、上記で「襲八千四百領」と検索)、衣服の支給目的で布帛を支払っていたわけでないことがわかります。
> 以上のことは、佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)の第四部貨幣経済の受け売りなんですが(汗)、後漢以降のことは特に書かれていないので、私も判りません。流通が滞ったことで、銅銭が通用しなくなり、相対的に布帛がよく使われるようになったイメージなんでしょうか。
指摘ありがとうございます!
※佐原康夫/著『漢代都市機構の研究』(汲古叢書31 2002年)
こちらの本、読んでみないとですね(高いですが)…とても参考になりそうです。紹介ありがとうございます。
> 直感的には貨幣的価値を有するには、背景に交換手段として使える価値があるという共通認識がないと厳しいでしょうね。
> また、錦も含め布帛は尺ごと寸ごとに分けられないため、一塊りの価値が高ければ貨幣としては不便であり、流通しないでしょうね……と、「分けられない」辺りは前述の『漢代都市機構の研究』(P.486)の受け売りで、前漢元帝期に銭を廃止して布帛のみを用いるよう進言したのに対する反論にあります(『漢書』巻二十四 食貨志下)
『貨幣の中国古代史』(山田勝芳著/朝日新聞社刊)によると
「銭による穀価・帛価の価格表示を行って貨幣的二元あるいは三元状況が生じ、実際の取引には、小額の場合は穀物や悪銭を利用し、やや高額には布帛を利用していたであろう。」
とあります。
高額として用いる布帛に蜀錦が入るのかどうか…。
> あまり関係ないですが、下記のような詔をみかけました。
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>《魏文帝詔》曰:前後毎得蜀錦、殊不相比、適可訝、而鮮卑尚復不愛也。自吾所織如意虎頭連璧錦、亦有金薄・蜀薄來至洛邑、皆下惡。是為下土之物、皆有虚名。
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><参考までに清岡による頼りない訳>
>魏文帝詔に言う。蜀錦を得る毎に前後して、とても互いに釣り合わず、まさに訝しく思うべきであり、鮮卑からはなおも慈しまれない。虎頭連璧錦のような吾の織物に比べ、洛邑に至り来る金薄・蜀薄がまたあっても皆、下悪だ。これを皆、虚名がある下土の物とする。
>
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> これは魏の文帝期では単純に蜀錦に虚名ばかりで価値がなかったのか、それとも政治的な意味が含まれたものなのか、私にはよく分かりません。
この件、何かの本に記載があったのですが…解釈としては、「蜀錦はたしかに高い付加価値を当時から持っていたのですが、それをいいことに偽モノが大量に出回るようになった」という感じだった気がします。
> あと税収としては、銭以外にも布があって、それは長沙走馬楼呉簡からも伺えるのですが(例えば下記のサイトで「畝收布」で検索)、別に銭の代わりという意味ではないので、「布帛の貨幣的価値の計り方」としては使えないと自己ツッコミを入れていました(笑)
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>・走馬樓三國呉簡.嘉禾吏民田家[艸/別]資料庫
>http://rhorse.lib.cuhk.edu.hk/
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> しかし、三国魏では穀帛が貨幣として使われていたことは有名なんで、「布帛の貨幣的価値の計り方」ぐらいすぐ判るだろうと、前述の電子図書館で『通典』巻八食貨八 錢幣上を当たっていたんですが、意外とないものですね。
いろいろあたってくださりありがとうございます!
中国語である瞬間から触手が伸びなくなる自分を恥じます…。
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