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Barbalさん、ご回答くださりありがとうございました!
> 『孫子算経』という昔の中国の算数書に“漢晋間人撰”として(よって三国志の時代とは事情が違うかもしれませんが)「今有錦一匹、直銭一萬八千(錦一匹の値は18,000銭)」とあり、同じく「今有買絹一匹、直粟三斛五斗七升」とあります。穀物の値段は騰落が激しいので一概には言えませんが、絹一匹がだいたい350〜500銭くらいではないでしょうか。
『孫子算経』という書物を知りませんでした…非常に参考になります!
> ただ、ひとくちに布帛といっても中絹・下絹など品質でランクがついている時代があり、また素や錦・縑・紗・綺など織り方の違うものがあり、すべてに違う値がついています。
やはりサイズだけでなく品質のランクもあったのですね。
ちなみに、ご存知でしたら「品質のランク」が具体的に掲載されている書物に心当たりありますか?
> 蜀錦がかなりの高級品で珍重されたことは確かですが、補助貨幣として用いられていたかはわかりませんし、仮にそうであっても穀物価の変動で大きく値を崩すこともあったと考えられます。
ただでさえ経済が極度に不安定な時代ですので、布帛の価値が物価の騰落に左右されやすかったことは想像に難くないです。
> 蛇足になりますが、同じ物品でも所変われば値も変わるのが当然であり(でないと交易・貿易が成り立ちませんので)、諸葛亮が「決戦の資、ただ錦あるのみ」(だったかな?)と言っているのは相当ヤバイ状況だと思います。
> 書籍やブログなどでよく「蜀は経済立国」「蜀は経済力に優れ・・・」云々と見かけますが、もう少し懐疑的に見る必要があるのではないかと思います。
この辺に突っ込んでみたいと思ったのが、まさに今回の質問のきっかけです。
蜀は農本主義のみに依らず、流通経済にも積極的に介入して富国強兵を推し進めたのではないか?と考えています。
いかに巴蜀が「天府」といえども、戦時国家化して労働力(男手)が相対的に低下している当時の状況では、労働集約型の農業のみによっては経済力の強化は為し得ないのではないか?と考えるためです。
物価の地域差を利用した交易の促進もそのひとつで、そのために「直百五銖」などの銅貨鋳造、公的な市の整備、塩鉄の官営化、現代でいう「一村一品」に近しい政策などなどの政策が実行されたのでは?と考えます。
農業にのみ依らない各種経済政策と、結果(「決戦の資、ただ錦あるのみ」に表れる政策実施後の、しかし厳しい経済状況)とをしっかり見定める必要があるとは思います。
> 以上、ほんまの蛇足で失礼しました。
蛇足なんてとんでもない…不都合でなければ、もっといろいろ教えていただけると幸いです!
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