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▼清岡美津夫さん:
>こんにちわ、清岡です。
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>三国演義の「第三十八回:定三分隆中決策、戰長江孫氏報讎」のところの
>
>玄勺・А岾醋浙弾亜・徊・・三豸鳥・ぁすμ舌・叩じ・禹轉・ァ
>
>大夢誰先覺?平生我自知。草堂春睡足,窗外日遲遲。
>
>ってところですね。
>C.H.Brewitt Taylor訳を見たとき、わかりやすいような意訳かなぁと思ったんですけど、確かに素人目に見ても「窗外日遲遲」が明らかに違いますね。
>他の詩の訳でもこういった例があるんでしょうか?
>
>試しに手元の電子テキストの三国志平話と元代の雜劇の「諸葛亮博望燒屯」を見たんですが、これらには諸葛亮が詩を吟じるところはなさそうですね。
>ご存知の通り、三国演義自体、時代変遷があるので、おっしゃる異説があるかもしれませんね。
>周瑜の命日の例[#1940]もあるんで、そこらへんもあたりたいところです。
清岡さん昨日はこのスレをPCより引っ張ってくださりありがとうございます。
昨日の三国志学会でこの質問を投げかけてみましたが
1 版の違い
2 意訳説
この2つの可能性はあるものの結論は出ませんでした。
英訳が元としたのはThe Romance of Three Kingdomsというサイトによれば
毛宗崗本のようです。
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This English translation is based on the Mao edition, which is also the most widely read edition in China and Asia.
英語版はアジア、中国で広く流布している毛宗崗本に基づいています。
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とはいっても毛宗崗本自体100種類以上の版があるとのことで異本の可能性が
否定されるわけではありません。
意訳だとすると(こちらはむしろ私の専門分野ですね)
次の可能性が考えられます。
1あいまいな表現、婉曲表現ではかえって伝わらないとき
日本語の俳句や短歌を英語にするようなもどかしさが
三国志演義にもあるかもしれません。
2詩の解釈をそのまま英語にした。
テーラー氏の英訳は注釈がまったくないので場面の進行上の都合で
ということもありえます。
1の可能性は低いと思います。
というのは原書の詩はそれなりに形をとっているのでそのまま訳しても
読者は納得するのではないでしょうか。
2原書の詩からこの解釈は飛躍がありすぎます。
なので元の文章が別であると考えるのが現状では筋が通っていると思いますが。
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