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こんにちわ、清岡です。
▼NAGAICHI Naotoさん:
>井波律子訳『三国志演義4』(ちくま文庫)の第五十七回によると、
>「建安十五年(210)冬、十二月三日」とあるのは、嘉靖本演義のようですね。
>毛宗岡本にはないってことかな。
なるほど、三国演義の嘉靖本の方に書かれているのですね。
もっとたどれるかもしれませんが、これほど知られた命日なので、妙に納得してしまいました。
どうもありがとうございます。
>正史の呉主伝を信じるなら、魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯したのは建安十五年のこと。
>
>通鑑の記事は次の順に並んでますが、時間順の根拠はよく分かりません。
>十五年冬、曹操の銅雀台建設。
>十二月己亥、曹操「漢征西将軍曹侯の墓」発言(ちなみにこの歳の十二月己亥は存在しない月日)。
>京口会見。
>周瑜の死。
>魯粛が奮武校尉、周瑜に代わって兵を領す。程普が南郡太守となる。
>魯粛が漢昌郡太守となり、陸口に駐屯。
>
>通鑑考異は、「江表伝に按ずるに、周瑜と孫策が同年で、孫策は建安五年に二十六歳で死に、周瑜はときに三十六歳だったので、今年(建安十五年)にあると知れる」としか書いてません。
>胡三省注は巴丘の地理を考察してるだけなので、今回の話題とは無関係と思います。
>
>以上、役に立たない情報ですが、ご笑納ください。
なるほど通鑑考異には月日までは書かれていないのですね。
こちらも見てくださってありがとうございます。
大体、どの月ぐらいか(あるいは出来事の順序)は別の史書をあたった方がよいですかね。
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