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▼YHKさん:
>12月3日というものが、何がしかの史書の記述に残っていて、信憑性の高いものなら、
>210年12月に、ようやく征蜀の準備が整った事になり、
>曹操側が翌年3月に関右対策を開始し、9月に関右軍閥の連合を破っている事を考えると、
>かなり後手に回った戦略である、という印象を受けてしまいます。
>逆に、「周瑜の命日は12月3日」という記述が、演義の創作などの明確な根拠が見えないものであるなら、もっと早い時期に征蜀の準備が整っていた可能性に繋がり、この戦略に関しても、可能性が広がると思うのです。
>追記にて恐縮ですが、
>周瑜の命日(12月3日)の信憑性、及び、天下二分論路線の撤廃時期について、
>詳しい方のご回答、ご考察等、お待ちしております。
>どうか、宜しくお願いします。
キーポイントになるのは、京城会見が209年or210年のどの時期に行われたか?ですかね。
周瑜伝に京城会見中には周瑜は生存していた事が書かれてますから、その時点では周瑜は生きています。一方で、魯粛は周瑜の死去を受けて江陵に入り、210年のうちに江陵を放棄して陸口に移転していますから、無理のない解釈をするなら、周瑜は210年初期から中期に死んだと考えた方がよさそうです。
で、天下二分論路線の撤廃時期ですが、結局の所、周瑜の死去及び、魯粛の江陵放棄・陸口移転が天下二分論路線の撤廃時期だと思います。これは持論ですが、周瑜の天下二分論というのは、孫呉政権による劉備擁立論だと思っていますので、周瑜が死去し、魯粛が江陵を立ち退き、劉備の蜀入支援体制をとった段階で、二分論は破棄されていると思います。
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