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こんばんわ、清岡です。
[#T3311]のツリーが解決されてないうちに別のことに答えるのは心苦しいのですが、わかる分を書きますね。
>ふと、思ったのですが、皇帝の兄や叔父のような存在は、(記載するときや、公式の場で紹介されるときに)どのように表現されていたのでしょうか。
それは表現される人の官位によるのではないでしょうかね。
皇帝の兄弟、つまり元々は皇子である人物ともなると、『続漢書』百官志に
皇子封王、其郡為國
(皇子は王に封じられ、その郡を国と為し)
とあるように、通常、王あるいは公に封じられるかと思います。
ここらへんどのへんまで言えるのかあまり裏をとっていないのですが、[#3385]で引かれる『晋書』武帝紀の記述は司馬炎が皇帝に即位したことを承けて、まさに血縁で近い者が王に封じられている史書での記述でしょうね(※念のため書くと、そこでの「皇叔父」は当時の呼称ではなく史書上での記述ですね。他はどうか知らないですが)。
そのため対象となる人が王である場合、臣下による二人称では「殿下」、三人称では「○○王」、御前では「○○王●(名)」とかなるんでしょうね。
>曹操の長子である曹昴は、「豊愍王昴伝」には、曹丕の兄とはもちろんなく、長子とも記されていません。
前述と同じように、曹丕が即位した翌年の黄初二年に、曹昴は『三国志』魏書豊愍王伝によると
黄初二年追封、諡曰豐悼公。
と豐悼公に追封され、後に王になります。いきなり王にならないのは、生者と死者との違いや、卞皇后の子と他の夫人の子との違いなんでしょうね、『三国志』魏書で見比べていくと。あと前例と後例を見ていると、その時代における宗族の待遇の違いなんかも絡んできそうですね。
少し本題からズレますが、元の投稿での冒頭にある劉備の場合であると、有名どころでは、『三国志』蜀書先主伝での記述で、
是時曹公從容謂先主曰:「今天下英雄、唯使君與操耳。本初之徒、不足數也。」
とありますように、曹操が豫州刺史の劉備のことを「使君」、つまり刺史に対する尊称を用いています。
時代が下り、劉備が漢中王のときは、『三国志』蜀書費詩伝を見ると、
後群臣議欲推漢中王稱尊號、詩上疏曰:「殿下以曹操父子
と費詩から「殿下」と称されています。
『三国志』魏書公孫[王賛]伝の注に引く『呉書』では、韓馥が袁術への書上で大司馬の劉虞を「劉公」と称しています。
書いているうちにどんどん皇帝から遠ざかってしまいますが、話を戻し、最後に、皇帝に関わる人物が儒教の枠組みでどう位置づけられるのか参考となりそうな論文をあげておきます。皇帝に対する皇后の対偶性の変遷について論じられています。
・CiNii - 天子の好逑--漢代の儒教的皇后論
http://ci.nii.ac.jp/naid/40005461874/
通常、手に入りにくい論文と思いますが、これを収録している『東洋史研究』第61巻第2号他同学会誌が昨年11月の「東洋史研究会大会」で100円で売られていて、たまたま手元にありましたので。
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