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【2543】司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 青木朋 2006/10/3(火) 3:21 教えて
┣ 【2544】司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 青木朋 2006/10/3(火) 3:52 追記
┃┗ 【2546】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 仁雛 2006/10/4(水) 3:20
┃┗ 【2547】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 青木朋 2006/10/6(金) 3:46
┣ 【2545】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? MM2 2006/10/3(火) 23:51
┗ 【2548】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 仁雛 2006/10/6(金) 18:03
┗ 【2550】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 渡邉義浩@大東文化大学 2006/10/12(木) 23:58
┗ 【2554】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ? 青木朋 2006/10/14(土) 14:36 感謝♪

【2543】司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
教えて  青木朋 WEB  - 2006/10/3(火) 3:21 -

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   いつもお世話になっております。
(先日、上記のタイトルの投稿があり、レスがつくのを私も楽しみにしていたのですが、どうやら質問者が削除してしまわれたようなので、あらためて私が投稿します。)

1.司馬師と司馬昭がいつから魏に仕官し始めたのか、晋書本紀以外の情報をご存知の方がいらっしゃったらお教えください。

 司馬師は『晋書』景帝紀に「魏景初中,拜散騎常侍」とあります。景初年間(237〜239)に散騎常侍で起家したのでしょうか。散騎常侍(三品)は起家官としては高位すぎるのでは? 三十歳で初出仕? などビミョーに疑問なのですが。
 司馬昭は文帝紀に「魏景初二年、封新城郷侯。正始初、為洛陽典農中郎將。」とあります。典農中郎將は、手元の資料では六品なのですが、兄に比べこの格差は・・・?

2.一般に、中央の役職に就いた人の子供は、自らが仕官するまでどこでどのように暮らすのでしょう? やはり故郷の自宅で勉強に励むのでしょうか? 例えば、司馬懿の息子である司馬師ならば、温県の邸宅で近所の先生にでもついて勉強していたのかということです。(司馬懿の場合はあちこち移動していて「中央」と言うのは難しいかもしれませんが。)それとも、洛陽に住んだのでしょうか?

情報ありましたらぜひご教授ください。

【2544】司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
追記  青木朋 WEB  - 2006/10/3(火) 3:52 -

引用なし
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   ひきつづき青木です。

2の質問については、以前の質問にレスを用意していたので、せっかくなので書き込みます。

東洋文庫『中国社会風俗史』の28章「官吏の生活」によると

漢の万石君の長男や鄭当時が「5日ごとの洗沐」に帰省して父に会い、友人を訪問したという記事が「史記」や「漢書」に見える(注・「史記」万石君伝「漢書」鄭当時伝、日者伝)。洗沐は休沐ともいって、髪を洗う名目で役所から出て、一日休息することである。昔の官吏は、いったん役所に入ると、昼夜その中で寝食して、5日目の洗沐に始めて外出したのである。
〜〜 中略 〜〜
漢では、冬至と夏至が休日になっているが、薛宣が、その当日も出勤している一官吏に「今日は昔からの公休日であるから、家族も待ちわびていることであろうし、仕事が残っていても、早く家に帰って妻子と酒肴を楽しみ、近所の人とも遊べ」(注・「漢書」薛宣伝)と諭しておるのをみると、漢の祝日は1日だけである。

とありました。(ただ、私自身が原典すべてを確認してはいません。)
 これからすると、官吏は大半の時間を役所に暮らし、その家族は役所の近くに住む場合が多いようです。

このほか情報お待ちいたします。

【2545】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
 MM2  - 2006/10/3(火) 23:51 -

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   ▼青木朋さん:
>いつもお世話になっております。
>(先日、上記のタイトルの投稿があり、レスがつくのを私も楽しみにしていたのですが、どうやら質問者が削除してしまわれたようなので、あらためて私が投稿します。)
>
>1.司馬師と司馬昭がいつから魏に仕官し始めたのか、晋書本紀以外の情報をご存知の方がいらっしゃったらお教えください。
>
> 司馬師は『晋書』景帝紀に「魏景初中,拜散騎常侍」とあります。景初年間(237〜239)に散騎常侍で起家したのでしょうか。散騎常侍(三品)は起家官としては高位すぎるのでは? 三十歳で初出仕? などビミョーに疑問なのですが。
> 司馬昭は文帝紀に「魏景初二年、封新城郷侯。正始初、為洛陽典農中郎將。」とあります。典農中郎將は、手元の資料では六品なのですが、兄に比べこの格差は・・・?
>
>2.一般に、中央の役職に就いた人の子供は、自らが仕官するまでどこでどのように暮らすのでしょう? やはり故郷の自宅で勉強に励むのでしょうか? 例えば、司馬懿の息子である司馬師ならば、温県の邸宅で近所の先生にでもついて勉強していたのかということです。(司馬懿の場合はあちこち移動していて「中央」と言うのは難しいかもしれませんが。)それとも、洛陽に住んだのでしょうか?
>
>情報ありましたらぜひご教授ください。

はじめまして。MM2と申します。
とりあえず1について。

>魏景初中,拜散騎常侍,累遷中護軍.(『晋書』景帝紀)
むじん書院様の『三國職官表』によると散騎常侍は三品、中護軍は四品となっています。
これでは三品官から昇進して四品官になった事になり、意味が通じません。
また『九品官人法の研究』(宮崎市定著)に魏代の数名の起家官表があり、その郷品が一〜二品と思われる者達の
殆どの起家官が散騎侍郎・散騎黄門侍郎であることから、ここは散騎侍郎の誤りではないかと思います。

あともう一点。
司馬師は青龍年間(233-237)に妻夏侯氏を亡くし、次に呉質の娘を娶るも離婚し、更に羊氏を娶ったようです。
このあたりの私生活のトラブルで一旦辞職していたのかもしれません。
司馬尚についてはざっと晋書に目を通した感じでは分かりませんでした。何か分かればまた書き込みます。
では。

【2546】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
 仁雛 E-MAILWEB  - 2006/10/4(水) 3:20 -

引用なし
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   ▼青木朋さん:
>東洋文庫『中国社会風俗史』の28章「官吏の生活」によると

官吏の休暇や勤務については
大庭脩『秦漢法制史の研究』創文社
「第七章 漢代官吏の勤務と休暇」にやや詳しく論じられています。中国語でも論文が多数あります。

> これからすると、官吏は大半の時間を役所に暮らし、その家族は役所の近くに住む場合が多いようです。

細かな部分は相違があるものの、基本的には上のようなことが「規定」としてあったことは確認されています(ただし、引用される事例は中央官僚か地方でも太守クラスのものであって、属吏に関しては不明です)。

尹湾漢墓(前漢末東海郡功曹史の墓)から出土した竹簡には「墓主の日誌」のようなものがあり、これを見る限り5日ごとの休暇は見えませんし、職業柄かかなりあちこち郡内を飛び回っています。本格的に内容を知りたいのであれば、メールでご一報ください。コピーさしあげます。
高村武幸さんの「秦漢代地方官吏の『日記』について」『古代文化』54-9、2002年
という論文もあります。


少し議論とはずれてしまいましたが、ご参考までに♪

【2547】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
 青木朋 WEB  - 2006/10/6(金) 3:46 -

引用なし
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   MM3さん、仁雛さん、素早いレスありがとうございました。
お返事が遅れて申し訳ありません。

▼MM2さん:
>>魏景初中,拜散騎常侍,累遷中護軍.(『晋書』景帝紀)
>ここは散騎侍郎の誤りではないかと思います。
>司馬師は青龍年間(233-237)に妻夏侯氏を亡くし、次に呉質の娘を娶るも離婚し、更に羊氏を娶ったようです。
>このあたりの私生活のトラブルで一旦辞職していたのかもしれません。

記録の誤りということも考慮すべきなのですね。
そして、30歳起家については、そのくらいの年齢から出仕するという慣例もあったのかなあ・・・などとも想像していたのですが(「九品官人法の研究」で南朝の名門は初任官が遅かったというよーな記述もあったような気がしまして・・・うろ覚えです。汗)、家庭のことも関わってくるのですね。

▼仁雛さん:
>大庭脩『秦漢法制史の研究』創文社「第七章 漢代官吏の勤務と休暇」
>尹湾漢墓(前漢末東海郡功曹史の墓)から出土した竹簡
>高村武幸さんの「秦漢代地方官吏の『日記』について」『古代文化』54-9、2002年

沢山の文献の紹介ありがとうございます!
大庭脩『秦漢法制史の研究』七章を読んでからレスをしようかと思ったのですが、近くの公共図書館に所蔵されておらず、時間がかかりそうなので、ひとまずお礼のみのレスです。すみません。

ありがとうございました。
他の方も、小さなことでも一言ありましたら引き続きお教えください。

【2548】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
 仁雛 E-MAILWEB  - 2006/10/6(金) 18:03 -

引用なし
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   青木朋さん、こんにちは。

いろいろ言いたいこともあるのですが、MM2さんがレスをしていない司馬昭のことについて指摘させていただきたいと思います。

>1.司馬師と司馬昭がいつから魏に仕官し始めたのか、晋書本紀以外の情報をご存知の方がいらっしゃったらお教えください。
>
> 司馬師は『晋書』景帝紀に「魏景初中,拜散騎常侍」とあります。景初年間(237〜239)に散騎常侍で起家したのでしょうか。散騎常侍(三品)は起家官としては高位すぎるのでは? 三十歳で初出仕? などビミョーに疑問なのですが。
> 司馬昭は文帝紀に「魏景初二年、封新城郷侯。正始初、為洛陽典農中郎將。」とあります。典農中郎將は、手元の資料では六品なのですが、兄に比べこの格差は・・・?

手元の資料というのはおそらくむじんさんがUPされている洪飴孫『三国職官表』のことかと思いますが、洪飴孫『三国職官表』が典農中郎將を「六品」としているのは約700年後の宋代の『冊府元亀』の記述からです(他の魏品は唐の『通典』からなので、魏の官品を云々するには、常に一定の不確かさがあると私は考えています。というか『冊府元亀』を小一時間見たのですが「第六品」という記述は見当たらず・・・↓)。この典農中郎將は『続漢書』百官志に「曹公置典農中郎將,秩二千石.」とあり、宮崎市定先生の『九品官人法の研究』によれば、漢秩の二千石は、魏品の四品or五品に相当します(同書、第二表)。五品は、父親が第一品の官位のものの子が起家官として与えられる官(『九品官人法の研究』)なので、相応しいと思います。

また世継ぎである司馬師と格差があるのは当然かと思います。たとえば『晋書』武帝紀に魏の斉王が即位した際、司馬懿に対する処遇に関して「以世子師為散騎常侍,子弟三人為列侯,四人為騎都尉.帝固讓子弟官不受.」とありますので(って、「以世子師為散騎常侍」とあるんですよね・・・)

とりあえず、レス逃げ。ご参考までに。

【2550】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
 渡邉義浩@大東文化大学  - 2006/10/12(木) 23:58 -

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   渡邉義浩です。

>散騎常侍(三品)は起家官としては高位すぎるのでは?
宗室は散騎常侍で起家することがあります。「宗室選」と言います。
『晉書』卷三十七 宗室 范陽康王綏傳附(九+虎)傳に、
宗室選を以て、散騎常侍に拝せらる。
とあります。『晉書』卷一 宣帝紀(武帝紀ではありませんよーん)
の記述を見ても、司馬氏を優遇するために宗室選を適用したと
考えてよいでしょう。次に移った中護軍は、要官ですので,たとえ官品
が下がっても左遷ではありません。

>司馬昭は文帝紀に「魏景初二年、封新城郷侯。正始初、為洛陽典農中郎將。」
は、
>>世継ぎである司馬師と格差があるのは当然
だと私も思います。洛陽の典農中郎將への就任は、
魏室の経済基盤であった典農部屯田を切り崩すために
重要な意味を持ちます。そもそも六品起家であれば,
十二分に貴公子です。

【2554】Re:司馬師や司馬昭の仕官はじめはいつ?
感謝♪  青木朋 WEB  - 2006/10/14(土) 14:36 -

引用なし
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   仁雛さん、渡邉義浩先生、わざわざ本当にありがとうございます。
恐縮のいたりです。

▼仁雛さん:
>手元の資料というのはおそらくむじんさんがUPされている洪飴孫『三国職官表』のことかと思いますが、

ちくま文庫『正史 三国志』8巻でした。。。汗
初歩的な資料ばかりですみません。

▼渡邉義浩@大東文化大学さん:
>宗室は散騎常侍で起家することがあります。「宗室選」と言います。
>司馬氏を優遇するために宗室選を適用したと
>考えてよいでしょう。次に移った中護軍は、要官ですので,たとえ官品
>が下がっても左遷ではありません。

>>>世継ぎである司馬師と格差があるのは当然
>だと私も思います。洛陽の典農中郎將への就任は、
>魏室の経済基盤であった典農部屯田を切り崩すために
>重要な意味を持ちます。そもそも六品起家であれば,
>十二分に貴公子です。

大変よく分かり、納得しました。
本当にありがとうございました!

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