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美術鑑賞メモ「フリーダ・カーロとその時代」
031019
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展覧会名:美しき女性たちのシュルレアリスム フリーダ・カーロとその時代
開催場所:サントリーミュージアム[天保山]
開催期間:2003年9月13日(土)〜10月19日(日)
鑑賞日:2003年10月19日(日)



   サントリーミュージアム[天保山]は、大阪市内にあるとはいえ、最寄り駅が「大阪港駅」であることからわかるように大阪湾に面しており、感覚的には大阪の端にある。私の住むところから時間的にも交通費的にもずいぶん、遠いところにある気がする(※大阪市内にすんでいれば普通の地下鉄料金でいけるんだけど)。それでも毎回、魅力的な企画展をやっているものだから、それら両方に余裕があれば、ついつい足を運んでしまう。
   今回の展覧会も開催期間中で最も混む最終日だというのに、ついつい足を運んでしまう。魅力的な企画展だったからだ。行くのはその日の昼に決めたので、ついたのは夕方だ。
   企画展のタイトルにもなっている「フリーダ・カーロ」について、私はその絵を生で見たことはないが、その生い立ちはテレビ番組かなにかで知っていた。この人の絵を語るときは、その生い立ちに触れずにいるのはむずかしそうだ。テレビ番組をみた記憶によると、18歳で事故にあい、深い傷をおってしまう。それは後遺症をともなうもので、日々、痛みとの戦いをしいられ、なにより、子どもをうめない体となってしまう。それでも夫、ディエゴからの愛があればいいのだが、ディエゴは浮気性。フリーダはディエゴの浮気を知っていながらも、彼に愛をそそいでいる。
   そんな過酷な現実から真っ正面に向かい合い、超現実(シュルレアリスム)という表現に昇華するだなんて、どんな絵なのか、実際に目にしたいと望んでいた。

   天保山のメインストリートを歩き、その美術館へ向かう。(そういえば、コンビニ・三国志が二国になっていたなぁ>>参照
   「THEドラえもん展」のときは建物の外まで並んでいたけど、さすがに、一般の人にとってあまり有名な画家じゃない展覧会はまったく並んでいないので、少し安心する。二階のフロアでチケットを購入し、エレベータで五階の展覧会の入り口へ向かう。相変わらず、「変わった」、というより「おしゃれな」つくりだ。
   展覧会の会場に足を踏む入れると、身動きできないほどではないが、結構、混んでいた。一枚の絵に二人はついている状態。さすが、最終日の夕方だ。
   はじめはフリーダの自画像。おそらく、「女性」「自画像」ときいて多くの人が想像する範囲外にこの絵はある。それはどれも共通して「つながり眉毛」だし、絵によっては、口元にうっすらとヒゲを描いている。ありのままの自分を表現したいのだろうか、私にはわからない。
   そういうことを思いながら絵を見ていると、不意に「こっちは女の人?   これ、全部、違う人やなぁ」と断定口調の女性の声が耳に入る。「おい!」と心の中でツッコミ。こんな特徴的な自画像からどうやってそんなセリフが出るのだろうか。それとももっと哲学的な意味なのだろうか。
   まぁ、自画像は「つながり眉毛」を確認する意味しか私にはなかったかもしれないが、その次の作品で衝撃をうけた。シュルレアリスムだ。

   まず、「根」という作品。ひび割れた大地にフリーダが横たわり、彼女から茎もしくは根が複数、生えていて、それらの先には葉っぱがある。本来、葉脈がある部分は赤くなっていて、そのまま、大地へとたれている。血だ。
   でも、フリーダの表情はおだやか。無表情ではなく、「おだやか」。その絵についている解説も大地と一体になれた喜びとか何とか書かれていた。だけど、私にはそれがとても痛々しく感じられ、衝撃的だった。背筋がぞわっとしてしまった。
   当人は大丈夫だよ、と告げているのに、こっちは勝手に感情移入してしまって、痛々しく感じている。認識のギャップ。そんな気まずさがあった。

   次は「モーゼ」という作品。真ん中に子宮の中にいる胎児。両サイドには歴史上の有名人や歴史を象徴する絵。私にとってのモーゼはやっぱり海を二つに分けた人というイメージだから、その絵の構成をそう感じていた。真ん中の胎児が縦に空間をつくっていて、両サイドに多種多様なイメージがあるからだ。
   それから、絵の両サイドをよくみる。ヒトラーにガンジーにフビライハーンにキリストにナポレオンに……教科書に出てくるような肖像の数々。それだけでも目で楽しんでしまう。

   その次が「抱擁」。まず目に付くのは赤ん坊化された夫のディエゴをだくフリーダ。それからその二人ごと抱く、銅像のような女身。さらにそれをだく超自然的な者。背景は大きく二つに分かれていて、それぞれに、他の作品にでも出て来るであろう、月と太陽がある。
   テレビ番組でその生涯を知っているので、フリーダの包容力のある愛情が痛々しいほど、心に響く。

   と、まぁこういう感じでフリーダの作品を見ていたんだけど、会場に気になる人が。
   会場はみんな真剣に見ているみたいで、関西でありがちな「作品とは無関係なおばちゃんのおしゃべり」が耳に入ってくることもなく、比較的、静かな様子だった。そんな中で日常空間では耳にしようのない「性」の単語が一つの音源から聞こえてくる。男性の声だ。たしかに、フリーダの作品は、「性」と深く関わる作品が多いんだけど、だからといって、得意げに連れの人へ何でもかんでも作品を「性」で解釈して露骨に「性」の単語を連呼するもんじゃありません(汗)
   回りのおばちゃんもその講釈に惹かれたのか、その男性に寄ってきてる。通行のじゃまとなっている。

   そうこともあってフリーダの作品を見ていると、突然、人混みが途切れるゾーンができる。何だろうと思ったら、「マリア・イエスキエルド」と銘打たれた看板が。
   あれ?   と思って、手元のチラシを見ると、この企画展のタイトルに「美しき女性たちのシュルレアリスム   フリーダ・カーロとその時代」と銘打たれていることに気づく。なるほど、フリーダの作品だけじゃないんだ。もっとも、チラシに書かれている英語タイトル「WOMEN SURREALISTS IN MEXICO」の方が、メキシコが強調され、私は好きなんだけどね。
   もっとフリーダの作品を見たかったけど、まぁ、私的にはこれで良かったのかもしれない。これだけ心揺さぶられる作品がこれ以上、続き、一展覧会分、あると、冗談抜きで、私は倒れてしまうかもしれないので。

   この「マリア・イエスキエルド」の作品。この展覧会ではシュルレアリスムを味わうにはもってこいの作品だとおもうんだけど、フリーダの後というのが直接、響いているのか、他人の存在、気にせずに、ゆったり鑑賞できるほど、すいていた。
   いきなり、一番人気のフリーダの作品群をもってくるのは、ちょっと失敗かな、なんて思っていた。人混みを拡散させるって意味でもね。

   その次の人物は「ローラ・アルバレス・ブラボ」のモノクロ写真群。一つの壁に密集して作品がおいてあって、その前にわらわらとまた人混み。
   なんでそんなに人気があるんだろ?   って思っていたら、理由はすぐわかる。フリーダの写真がたくさん、あるからだ。やっぱりフリーダが一番人気のよう。その人混みの流れに入り、フリーダの肖像にたどり着いたとき、聞き覚えのある女性の声が耳に入る。フリーダの自画像のところで、そう「これ、全部、違う人やなぁ」と、のたまっていた人だ。その人がその写真を見て曰く「これさっきの人やろ?……実物の方がきれぇーい。眉毛、つながってないし」。そしてすぐ去っていく。
   ……いや、さっきの肖像群が同一人物だと気づいてくれたのは良いんだけど、それを確認しにきただけなの?……いや、私も人のことは言えないけど……
   それにしてもフリーダ。着飾って綺麗でした(←同類)

   さて、五階はこれで終了。階段をつたって、四階の展示場へ行く。

   階段を下りてすぐ目に入ったのが、見に覚えのある絵。レメディオス・バロの絵だ。
   実は、レメディオス・バロの展覧会に以前、行ったことがあり、もう私のお気に入りの作家の一人なのだ(ちなみに、今回の展覧会の「あいさつ」にメキシコつながりということで、バロの展覧会のことが触れていて、開催されたのは1999年と明記されていた……前世紀やん!)。
   その作風はシュルに輪をかけたシュルレアリスム。想像の域をはるかに超えている!
   まぁ、1999年のレメディオス・バロの展覧会と同じ絵が並んでいたので、私にとっては「初遭遇の衝撃」というより、「お帰りぃー♪」というような懐かしい気分だった(※レメディオス・バロの出身は日本ではありません)。
   その最たる作品が「菜食主義の吸血鬼」。菜食主義と銘打たれているとおり、三人の吸血鬼がそれぞれストローでスイカ、バラ、トマトを吸っている。いくら、赤いからといって生き汁をすする吸血鬼だなんて(笑)。足下には、羽がなくしっかり4本の足があるニワトリがいる。
   もちろん、新たな発見はいろいろあった。星くずを細かく砕いて、かごの中に入っている三日月にそれを食べさせている絵とか、空からなにやら、蒸留して絵の具にする絵とか、素晴らしい!

   あとは、二名の画家と一名の写真家の作品が続く。

   全体的にこの展覧会、私にとって良かったみたいで、最後にある売店にてポストカードを七枚も購入していた。
   最終日でも来て良かった、帰る頃にはそういう感想をいだいていた。





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