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名は堅、字(あざな)は文台。(孫氏からみた三国志3)
021021
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   そうそう、書き忘れていたけど、孫氏は、有名な兵法家、孫武(通称、孫子)の末裔らしい。そのことは三國志呉書の冒頭に書いているんだけど1)、そこには「らしい」っていうのも書いている。自称か他称かわからないけど、孫子の末裔であることはその記述以外、特にみられないので、あまり重要なことじゃないんだろう。もしかすると、孫武の地域にいる孫氏だから、そう思われていたのかもしれないし。

   話戻して、そんな孫家に生まれた孫堅は、どんな人だったかというと…

堅生、容貌不凡、性闊達、好奇節。

   これは前回も出ていた韋昭撰「呉書」の記述021005-1)。というか、前回の続きになる記述。
   まず、見た目は非凡(不凡)とのこと。これじゃ、第一印象で好かれるのか、嫌われるのかさっぱりわからないけど、きっと、子どもの頃から目を引くような姿をしていたんでしょう(←言葉を濁す)。
   性格は「闊達」!   つまり、度量の大きい人。こうみると、子どもの頃から親分肌で、近所のガキどもを従えていた、と想像するのは私だけかな。
   あと、「奇節」を好むとのこと。これは奇行癖があったとかではなく、良い節義を好むとのこと。

   さて、そんな孫堅だけど、冠禮を迎える。言い換えると、成人になるってこと。
   いつ、成人になったかは、どの史書にも見られないけど、十代のころに仕官したから(これは後ほど説明)、おそらく成人したのも十代だと思う(自信なし)。
   まあ、成人になる儀式である冠禮の日にちは決まっていて、後漢書(三国志の時代と近い)によると、

正月甲子若丙子為吉日、可加元服、儀從冠禮。2)

   とのことなので、一月(正月)の「甲子031003-3)」もしくは「丙子」の日らしい。「甲子」や「丙子」とは、六十個ある日にちの名前で、今でも占いなどに使われるようだ(うろ覚え)。
   (2003年10月31日追記。「甲子」は六十個ある日にちの最初に数えられるやつで、「丙子」は13番目、つまり12周期がおわった後の最初に数えられるやつ。)
   あと、禮記によると、

已冠而字之、成人之道也。3)

ということで、成人になると、字(日本では「あざな」と読む。「文字」の「字」と紛らわしい)がつけられるらしい。「字」とは、「姓」や「名」以外につけられる名前である。現在の日本の我々にはなじみのない習慣。
   孫堅の場合、姓が「」で、名が「」。そして、冠禮でつけられた字が「文台」ということ。これは三国志呉書の冒頭に載っている。
   聞くところによると、当時の人は他人の名をそのまま呼ぶのは無礼だったらしく、そのかわりの呼び名として字(あざな)があるそうな。もちろん、例外もあって、身内が目下の人を呼ぶときや、君主が部下を呼ぶとき、さらに敵の陣営にいる人を呼ぶときなどは、むしろ、名を使う方が多そう。その年齢以前は、「小字」や「一名」などの字とは違う別名が使われていたみたいだけど、史書ではあまり見られないので、その習慣がどのくらい普及していたのかは、私にはわかりかねる。あまり、普及してなかったからなのか、それとも歴史に記すほどのことでもないからなのか……出土する考古学史料も参考にすれば、その辺はわかることだと思う。
   と、いうわけで、これからは、孫堅のことを「文台」と呼んでいく。

   ちなみに、この字(あざな)、当然、文台の兄や弟にもつけられている。
   まず、前回、ちらりと紹介した文台の兄、孫羌021005-2)は、「聖台」という字をもっている。あと、文台には、名が「静」という末の弟がいて、その弟の字は「幼台」4)。つまり、3人兄弟、そろって、字に「台」がつくのだ。字を揃えて、仲良し兄弟♪(?)5)
   (ちなみに名も字も伝えられていないが、文台さんに妹がいる……歴史の表舞台にでるのはまだ後になる。)
   字には、こういうふうに何らかの意味がある場合が多い。字に意味がある、もっと有名な例があるけど、それはそういう字が出てきたときに説明したいと思う。(多分、余所の三国志コンテンツだったら余裕で載っているようなこと・笑)



1)   「孫堅字文臺、呉郡富春人、蓋孫武之後也。」(「三國志卷四十六呉書一 孫破虜討逆伝」より)のところ。「臺」は「台」の旧字。はじめの文字。「蓋」(けだし)の文字がツッコミどころ。   <<戻る

2)   「後漢書志第四  禮儀上  冠」より。当時の成人年齢の記述もあればいいだけど。   <<戻る

3)   「禮記疏卷第六十一   冠義第四十三」より。禮記のことを良く知らないので、文献の表記が間違っているかもしれない(汗)。   <<戻る

4)   「孫靜字幼臺、堅季弟也。」(「三國志卷五十一呉書六   宗室傳第六」より)という記述。「靜」は「静」の旧字&「臺」は「台」の旧字。   <<戻る

5)   実はこの3兄弟の字のいきさつはちょっとややこしい事情がある。現在、伝わっている三国志呉書によると孫羌の字は「聖壹」(臺(台)にあらず)ということになっている。でも、他の兄弟が「文臺」「幼臺」だから、「聖壹」は「聖臺」を書き間違ったのではないかという説がある。私もそう思うので、脚注021005-2)ではそういうふうに表記した。ちなみに「聖壹」や「聖臺」を検索すると、「邪馬臺国」の話がでてきて驚いた。   <<戻る

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