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瓜売り、その名は鍾(孫氏からみた三国志1)
020929
<<伝説からこんにちわ(孫氏からみた三国志0)



   前回の始皇帝話より数百年、経った後の話。「宋書」より。

   呉郡の富春という名の地に、孫鍾(そんしょう)という人が母と二人きりで住んでいた2)。伝説にありがちだけど、この鍾っていう人はかなりの孝行ものだったとのこと。
   たまたま、その年が不作で、鍾は瓜を育てることを仕事にすることにしていた。
   そんなとき、不意に三人の少年が現れ、その瓜をちょうだい、と鍾におねだりした。こんな見ず知らずの少年たちに何を思ったか、山で(?)鍾は少年たちを手厚くもてなす。
   少年たちは鍾に言う。
「ここの山を下って、墓をつくるといいよ。そこに葬ると天子が生まれるはずなんだ。ここから百歩のところまで山を下ってから振り返ってね。そのときに僕たちは立ち去るね。その場所で葬るといいよ」
   三人のセリフは元々、漢文なんで、私が勝手に口調を決めたんだけど、お礼をするわけじゃなく、いきなり墓をつくれとは訳がわかんない話。
   天子とは、まあ言ってみれば皇帝のこと。そこに葬るだけで、皇帝が生まれるなんて、何?
   ガキどものお遊びにつきあってやるか、と鍾が思ったかどうか定かじゃないけど、とにかく鍾は山をおりはじめた。我慢できなかったのか、三十歩、行ったところで鍾は振り返る。そうすると、彼は白い鶴に乗って、飛び立っている少年たちを見る。
   少年だったら鶴に乗れるんだ、と思ったかどうかわからないけど、どうやら、鍾はその話を信じたようだ。
   鍾が死んで、その亡骸は言われたところに埋葬されることになる。


   はてさて、鍾は死んじゃったんだけど、はたして皇帝は生まれるのでしょうか。
   って、三国志をある程度、知っている人だったら、これがどうなるか、バレバレなことでしょう(笑)。
   三国志をあまり知らない人へ。(ここへ見に来ている時点で違うような気がするけど・汗)
   この答えはなかなか出ません。気長にお待ちくださるか、他の情報でご確認ください。

   お次は孫鍾のまご(子という説もあり)、堅の話。



1)   清岡は京都府立図書館で「蒙求」を見る。「三二四   孫鍾設瓜」ってところ。このページで紹介したことと部分部分で違ってくるので、見比べてみるといいかも。どちらにせよ、かなり後の史料にこの話が登場するので、当時、こんなことが語られていたのか、はたまた後世の後付けなのか疑問に思ってしまう部分が多い。   <<戻る

2)   「宋書卷二十七   志第十七符瑞上」の「孫堅之祖名鍾、家在呉郡富春、獨與母居。」の部分以降を参考にしている。ちなみに清岡はずっと孫のことを孫と書いてた(大恥)。このサイトでも間違えてる箇所があるので探してみて(投げやり)。   <<戻る

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