故郷はここに   〇二
185/02-
<<目次
<<〇一
<<小説本編の入り口へ戻る


   あれから一ヶ月ばかりが経った。
   あれ以来、俺とあいつとは会ってないし書簡のやりとりもない。俺に非があるかもしれないし、こんなことで古くからの親友を失いたくないが、俺にも意地があった。いや、その意地を馬鹿げたことだと理屈ではわかっていたが、俺は状況を打破するきっかけを見失っていた。
   傅南容に関する報せを耳にしたのは、ちょうどそのころだった。なんでも安定郡都尉の南容はまた転属して京師(みやこ)に戻るとのことだ。今度は司徒に仕える議郎という役職になるらしい。司徒といえば天子様を政治面で補佐する最高位の官職だ。それに仕えるのだから、南容のやつは着実に出世しているのだと俺は思っていた。そして、俺が気にかけているのと関係なくあいつがどんどん出世していくことを俺はもう疎ましく感じ始めていた。
   それらの思いも、続いてきたもう一つの報せを聞くまでのことだった。
   その報せというのはほとんど噂みたいなものだが、真実味があった。それは南容が安定郡都尉になったのは、出世したのではなく地方へとばされたからだというものだ。その噂によると南容は宮中の官吏たちの不正を指摘したため、その官吏たちから恨みを買い、禄に兵を持たされないまま、羌族や胡族が攻め込んでくる安定郡にとばされたということだ。南容のやつは黄老道の討伐のおり、敵の将三人を捕らえたので、本来、安定郡都尉よりもっと高い官位についてもおかしくない。だから、その噂には真実味があった。
   一ヶ月ほど前、俺があいつに会ったのはちょうどあいつが任地の安定郡へ向かう途中だった。もしかして、あいつは俺を哀れんで訪ねたのではなく、俺に助けを求めていたのかもしれない。もし、俺があいつの立場だったら、何の力もなくとも信頼できる幼なじみに近くにいて欲しいと思うだろう。そんなことをまったく気にもせず、あのとき、俺はあいつに辛くあたっていた。今さら後悔しても仕方のないことは分かっている。だから余計に俺の胸をしめつけている。
   いつか、この埋め合わせをしなければ。


   緊急の県会議だ。
   三〇名ほど同じ部屋に集まっている。俺は県長の席から最も遠い、最後尾の席に座っていた。
   県長はまだ現れていなかったが、皆、何の会議がうすうす気付いている。なぜならば、ここ数日、ある話で持ちきりだからだ。県長を待つこの一時でもその話題は絶えない。
   昨年末にここ霊州県にも攻めてきた異民族が西方で勢力をさらに拡大してきたという話だ。昨年末、ここからはるか西の金城郡は、北宮伯玉や李文侯に乗っ取られ、さらに今、こちらの方へ攻め上がっているという噂だ。その数、騎馬だけでも数万騎と言われている。
「まったく京師の軍は何をぐずぐずしているんだ。霊州県は金城から京師までの通り道じゃないとはいえ、うかうかしているとやられてしまぞ」
   そう大声を出したのは前の方に座っていた県尉だった。つい雑談に興奮してしまったのだろう。県の治安をあずかる県尉として心配でならないといった様子だ。
   そのとき、県長が場に現れた。すぐに場は静かになる。県長は床几にすわるとすぐに口を開く。
「諸君、忙しい中、申し訳ない。事態は急を要することだ。昨日、北地郡の太守から内々に連絡があったんだが……」
   県長の口調は落ち着きはっきりしたものだったが、県長の態度は落ち着きのないあやふやなものだった。そこにいた官吏たちはそんな県長の様子にことの重大さを感じていただろう。俺も県長の次の言葉を見守っていた。
「我が霊州県は、当然のことだが、北地郡に属しており、その北地郡は涼州に属している。そして去年から先零羌や湟中月などの異民族がこの涼州で反乱を起こすようになってきた。涼州といっても今はまだここより西の方の金城郡のみだが、日に日に勢力をのばしてきており、京師や長安がある東へ攻め上がろうとしている。その軍資や食糧を得るため、金城郡では略奪が日常的に行われているらしい。もう、涼州の政府は自力で立ち直ることはできない。そこで我が霊州県は先を見越して安全な場所へ避難する」
   県長が言葉を出し終え、しばし沈黙が訪れると、すぐに場は騒がしくなった。
   俺は誰に話すともなく、事態を把握しようとしていた。まず気がついたのが、去年と似た状況だということだ。それだとわかりやすい。県の民を避難させるのだから先零羌が攻めてくる前に行動へ移せばよい。俺はそれを確認してみたくなる。
「県長どの!」
   俺は手をあげ、県長の気を引いた。俺の声に応じてか前に座る県吏たちは、一斉に振り返る。俺はそんな皆の注目にひるむが、しばらくして意を決する。
「では、昨年末と同じように民を先導して避難させれば良いのですね」
   俺のその発言に県長はすぐ片眉を上げた。
「いや、ここで言う霊州県とは民を含めない。どうするかは民それぞれの勝手だ」
   と即答する県長。
   俺は自分の耳を疑った。圧倒的な兵数の異民族が侵略してくるかもしれないから、先に民を避難させる、というのは理解できるが、民のことを考えずに県吏たちだけが避難するなんて想像すらできない。
   俺は県吏の中でも下っ端に分類されるので、一度の発言だけでも恐れ多いことなのに、二度目の発言に移ろうとしていた。それは俺の中での疑念があまりにも大きくなりすぎていたからだ。
「では何のための避難ですか。我々だけが避難しても意味がないと思います」
   なるべく感情が外へ出ないよう努めていたが、俺の声は明らかにうわずっていた。俺の視界に県吏たちの冷たい目がある。でも、俺は間違ったことを言っているなんて少しも思っていない。
   県長は両腕を組み顔をしかめている。
「うーむ、私の言葉が悪かったみたいだな。霊州県は……いや、涼州の官吏すべては太守から一兵卒・一県吏に至るまで涼州から撤退する」
   県長は俺をたしなめるように告げた。
   涼州から撤退だと。俺にとってとても信じられないことだった。よその土地から転属してくるお偉いさんたちには判らないかもしれないが、撤退とは故郷をすてると言うことだぞ。
「それじゃ、まるで涼州全体の民を見捨てるみたいじゃないですか」
   もう周りの目を気にせず、俺は感情むき出しで三度目の発言をしていた。
   県長の表情に暖かみが消える。
「そのとおりだ、祖季盛。これは内々だが崔司徒どの、直々の命令だ」
   県長はこれで最後だとばかりに冷たく言い放った。
   県長の冷たい態度や今の緊迫した状況よりも、俺は一つの言葉に気が向いていた。県長が言った「司徒」という役職の名だ。俺はその言葉ですぐ思い出す。確か、司徒といえば、南容が仕えている人だ。当然、直属の部下である南容がこのことを知らないわけはない。
   あいつは故郷が棄てられてしまうというのに平気なのか?
   南容のやつはいったいどうしてしまったというんだ。
「判っただろ、祖季盛よ」
   そう名前を呼ばれ、俺ははっとする。その一声は県長から発せられていた。
「判りました……」
   俺は力なくそう応えていた。
   もはや、差し迫った霊州県のことに気がまわらなくなっていた。俺の胸中は南容への疑念でいっぱいだった。南容を信じることができなくなっていた。会っていない十年間であいつは故郷のことなんてすっかり忘れてしまったんだろうか。故郷を離れ、学問を修め、仕官し、出世することのどこにあいつを変えてしまうようなことがあるというんだ?   これほど冷酷になれるのか?
   あのとき、あいつが武官への転属に俺を誘ったのも、俺を頼ってのことではなく、単に俺を見下し哀れんでのことなのか?
「そのとおりだ」
   耳に入ってきたその一言に俺はびくっとなり、声のする方へ向いた。そこには先ほどと同じく県長が座っていただけだった。俺の心の中での問いと県長の言葉が偶然重なっただけと知って少し安心する。
   県長は県吏たちの問いに答えている最中だった。
「霊州県の県府(やくしょ)はなくなるが、君たちの職のことは心配に及ばん。何とか今の官位を下げずに転属先を決めてやる」
   その県長の声を俺は何とか聞いていた。
   俺の心にあるもやもやがなかなか晴れないでいた。それどころがどんどんどす黒くなっていくようだった。今の俺には故郷を失うよりも昔の親友に裏切られたことの方が怒りに狂うことだし悲しみに落ち込むことだった。
   たった数人の意思により、俺が十何年も守り続けてきた故郷の運命が簡単に決まってしまう。なによりもその決定に親友が関わっている。そう思うと攻撃的な気持ちよりもとてつもない無力感に俺は襲われていた。故郷が失われ、それに古くからの親友にも裏切られ、俺はもうどうなってもいいと思い始めていた。
「県長どの…」
   その声は俺の口から発せられていた。
「祖季盛、まだ何かあるのか」
   県長はすぐに応じた。
「県長どの、俺の転属先を決めないでください……」
   俺は力なく話し出していた。俺はちょうど暗く深い心の奥底にいるような感じがしていた。思考の堂々巡りによる渦の中に沈んでしまっているようだ。それでも、決められたことのようにただ口を動かしている。
「どういうことだ?」
   県長はその一声で俺の言葉を遮ろうとした。だが、俺は口を動かし続けている。
「……涼州の官吏すべてが職を失うのですから、多くの転属先を探すのは難しいことでしょう。だから、一人でも転属先が少ない方が皆のためになると思います。俺は他の県吏と違って独り身ですから、職を失っても皆ほど問題にはなりません。では、これで失礼します」
   俺の声は生気のないものだった。そして決められたことのようにただ体を動かし、部屋の外へと向かっていた。
   俺の耳にはもう県長や県吏の引き止める声は届かなかった。