故郷はここに   〇三
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   頬をかすめる北からの風がいよいよ冷たくなっていた。
   本格的な冬の到来だろう、と俺は思った。この寒気は俺の腹の空腹感をますます強めていた。
   確か、俺が故郷を後にした時期は、今とは反対に暑さに向かっていた季節だった。それ以来、俺は狩りなどで食いつなぐのに懸命だった。それがかえって嫌なことを考えずにすんでいたのかもしれない。
   もう長い間、人とは会っていない。ずっと一緒なのは俺の馬だけだ。俺は先零羌になるべく遭遇しないようにさまよっていたため、今、どこにいるか見当もつかないでいた。
   孤独感はなかった。しかし、ふと気がつくと、故郷、霊州県のことを考えていた。県吏たちが撤退した後、住民たちは無事でいられたのだろうか、霊州県はもう先零羌の手におちてしまったんだろうか、など俺は思いを巡らせていた。そうすると、俺の心に必ず浮かぶのが南容のことだ。そのとき、俺は怒りと悲しみが入り混ざった複雑な気持ちになっていた。食に飢える今の俺とは違ってあいつが京師(みやこ)でのうのうと裕福に暮らし、時が経てば出世していくと思うと、俺は取り残されたような、とてつもないみじめな気分になっていた。俺があいつを一発、殴りさえすれば、それですっかり昔のような良いやつに戻るという妄想を抱いたりもした。大概、そういうふうに考えている自分が嫌になって、俺はすぐ考えることを止めてしまっていた。
   山のふもとのこの地にいるのは、今日で四日目だ。人里から離れたところなので、冬も間近というのに獣を結構、見かける。しかし、今日になって急に獣の姿を見かけなくなっていた。俺は馬に乗り、空腹を手でおさえながら辺りを探し求めていると、俺の耳に大勢の声が入ってくるようになった。
   嫌な予感がした。
   身の危険を案じ、すぐに引き返すことも考えたが、俺はそのまま、音のする方へと馬を向かわせていた。もしそれが先零羌だとしても逃げ切る自信はあった。
   小高い一つの丘を登りきると、眼下には大勢の人がいた。俺の嫌な予感どおり、それは先零羌だった。俺はその数を把握できないでいたが、どうやら先零羌の軍は官軍と戦っている最中のようだ。いや、もう官軍が南へと敗走している。先零羌の軍はほとんど追撃せず、列をなす荷車に群がっている。その荷車はおそらく官軍のものだったのだろう。官軍の騎馬と先零羌の騎馬の間はどんどん開いていく。
   だが、目をこらすと、官軍と先零羌の軍の間で、馬に乗る男が先零羌の騎馬三人に追われているのが見える。差はゆっくりだが確実に縮まっている。おまけに先零羌の兵は馬上で矢を射かけているようだ。いずれ、官軍の男は捕まるだろうなと思いながら、俺はなんとなくその様子を見下ろしていた。
   敵が三人ぐらいならば。
   そう思っていると、いつの間にか俺は丘を下るよう馬を駆けさせていた。先回りする道は覚えていた。その先、どうなるかは考えになかった。ただ、その場へ早く着きたかった。
   道と道とが合流する地点に俺は馬を止めた。先回りは成功したみたいで、官軍の男と先零羌の三人は後方からこちらに向かってくるのが見えた。向こうがこちらに気付き身構える前に手を打つ、と思い浮かべたころには俺は向こうへと馬を駆けさせていた。
   俺の視界にしめる、人と馬の姿が次第に大きくなっていた。一番手前に馬にのる官軍の男。その男は左腕をだらんとさせ、右手だけで手綱を操って後を向いている。左腕を怪我しているのだろうか。そして奥から先零羌の三人がその男を追いかけている。馬上から矢を射かけている。だが、充分に短い距離ではないため、先零羌の矢は官軍の男に届かない。
   俺が状況を確認している間も、俺の馬とその四人の距離は縮まっていた。俺は手綱から両手をはなし、左手に弓、右手に矢を持ち、ゆっくりと構えた。馬上で俺は足だけで体勢を整えていた。
   俺の馬はまず官軍の男に近づく。官軍の男は追っ手ばかりに気をとられて、こちらを見ていない。男の服の左腕部分は血でどす黒く染まっている。男は音で気付いたのか俺の方へ急に振り向く。すぐに男の表情が一変する。驚きの表情だ。多分、男は俺のことが敵か味方か判別できなかったんだろう。しかも、俺が矢を男の方向へ向けているから、男はかなり動揺したことだろう。一方、奥からこちらに向かってくる先零羌三人も男と同様、呆然としている。
   男の馬と俺の馬は向かい合って駆けていたので、どんどん距離が縮まっていた。男の驚きの表情は固まったままだ。その顔が変わる前に俺は男とすれ違う。男は俺の左後の方へ消えていく。俺の目はすでに先零羌三人の一番手前の一人を捕らえている。先零羌三人はようやくあわて始めた。俺を敵と認めたからだ。もう遅い。
   俺の矢は、俺の右手と弓から放たれた。
   その矢は勢いをなかなか失うことなく、まっすぐ先零羌の兵一人の元へ向かっていた。
「がっ」
   矢は肩口に突き刺さり、兵一人の喉から悲鳴を上げさせた。その兵は平衡を失い馬上から地面へと落ちようとしている。
   後続の兵二人は咄嗟に左右へと馬首を巡らす。落馬し行く兵から離れるためだ。
   俺は弓を地面へ捨て、左手で手綱を引き、馬首を左へと向け、右手で腰の鉄刀を抜いた。向かう先の先零羌の一人も同じように弓を捨てていた。だが、もう遅い。俺は鉄刀をすでに振りかぶっている。
   ここ数ヶ月、狩りの獲物ばかり切ってさび付いた鉄刀だ。左側へ来た兵一人に俺はその鉄刀の先を力任せにぶつける。兵は言葉にならない声をあげ、馬上で崩れる。
   俺は右を振り向き、先零羌の三人目に視線を移した。俺の目に入ってきた姿はこちらを向かってくる三人目だった。三人目はすでに弓と矢を構えている。驚きのあまり、俺の息は止まりそうになる。最期を覚悟した。
「やーっ」
   その声は俺でも敵兵でもないところから発せられていた。それがどこだか俺はすぐにわかる。敵兵の右横に馬に乗る人影が現れたからだ。
   その人は敵兵と向かい合って、右手に持つ鉄刀を左側から横殴りに前へと出していた。ちょうど、その鉄刀の先は敵兵の腹にあたった。敵は弓と矢を手放し、腹から前へ折れ、吐くような声を出す。
   そこでようやく俺は気付いた、その人がさっきの官軍の男だということを。
   俺はこの男を助けようとしていたのに、今は逆に助けられていたのだ。
「素早いな!   いつの間に現れたんだ?」
   男のあまりにも早い動きに、俺は思わず声を出した。それに、この男が左腕を怪我していて敵兵を右腕一つで倒したのは、俺にとってとても驚くべきことだった。
   男は血塗られた左腕をだらりと降ろしたまま、まだ右腕で鉄刀を構えている。その刃先は俺の方へ向けられている。
「おまえは敵か味方、どっちだ?」
   男は俺に厳しい顔を向けたままだった。
「み、味方だ」
   男の意外な言葉にうろたえたものの、俺は咄嗟に言葉を出した。
「なら、逃げるぞ。俺についてこい。敵は気を取り戻したらまた追ってくるからな」
   男は有無を言わせない覇気を持っていた。男が鉄刀をしまった後、俺はゆっくりうなずき手綱を操り、馬を半転させる。
   男は俺の動作を見守ってから、馬を南へと駆けさせた。俺はその後に続く。
   地面や馬の上で気を失っている先零羌の三人は、俺たちから後方へどんどんと離れていった。それを見定めてから、俺は馬を少し早く歩かせ、男の左隣へとならぶ。
「俺は祖季盛だ。おまえ、なんて名前だ?」
   俺は男に名乗った。男は左を向き、やわらかく微笑みかける。
「俺、孫文台って名だ。よろしくな」
   孫文台と名乗る男は傷ついた体とは不釣り合いに元気良く答えた。俺にとってそれがとても奇妙な様子に見えた。
「その左の腕、大丈夫なのか?   血だらけじゃないか」
   俺の心にある心配は素直に口から外へと出ていた。
「あー、これか。今は興奮して痛みはさほどないが、そのうち痛み出すかな……ま、大したことないな」
   馬上の文台と名の男は目で自らの左上腕を追い、それから俺の方を向きまた微笑んだ。だが、急に文台は視線を外し、顔をしかめる。彼は再び俺の方を向き口を開く。
「俺は今から馬の上で倒れる。でもそれはこの傷のせいなんかじゃないからな。間違って俺を墓穴に入れたりするなよ…」
   文台が話している最中、俺は彼の言うことを理解できなかった。文台が話し終えると、彼の上体は前に倒れ、馬の背に寄りかかっていた。
「文台?」
   俺が声をかけたときはすでに遅く、文台は気を失っていた。