故郷はここに   〇一
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   あいつは突然、現れた。
   ちょうど、俺が県吏(やくにん)の仕事を机でやっていたころだ。
   あいつはまるで、俺が春の陽気で睡魔に襲われていることを見透かして声をかけたようだった。
   いや、実は俺があいつだと分かるのは、もう少し後のことになる。
   あいつの第一声は
「季盛!」
   の一言だけだった。
   姓の含まない自分の名前を呼ばれ、俺は反射的にそちらへ振り返る。そうすると、部屋の入り口に長身の男が立っているのが見えた。長身の男は俺より数段、高い官位についていた。男の腰から前にたらす青い絹、つまり綬がそれを表している。
   俺は咄嗟にその場で立ち上がり、礼をした。おかしいと思いながらも、お偉いさんの監査か何かと考えたからだ。
「は、霊州県吏の祖季盛です。何かご用でしょうか!」
   俺は眠気を一気に吹き飛ばすのを兼ね、口からはっきりした声を出した。ところが意外にも長身の男は笑みを漏らす。
「はは、何、堅くなってんだ、僕だよ、僕」
   長身の男は自分の顔を指さした。
   俺はそれにつられて、長身の男の顔を凝視する。すぐはっとした。
   長身の男は、そのさわやかな顔をにこりとする。
「そう、僕だよ、南容だ。傅南容だよ」
   長身の男は俺の相づちを待ちきれず名乗りをあげた。
   そうだ、目の前に立つ男は南容だ。長身の男は俺なんかとは比べものにならないくらい高位な官吏(やくにん)の服装をまとっていたが、その涼しげな顔は間違いなく、幼なじみの南容だった。南容とはもう十年も会っていない。最後に会ったときも俺とは違って学問に通じたやつで、風の噂ではここ十年の間、かなり出世したらしい。でも、俺の中では未だ、幼きころに二人で馬首をならべ野山を駆けめぐった印象が強く残っていた。
   俺の顔は懐かしさと嬉しさで崩れまくっている。
「なんだ、南容か、俺はてっきり郡のやつらが監査をよこしてきたと思ったぞ。いやあ、なつかしいなあ、お前、そんな服、着ても全然、変わらないんだもんな……」
   俺は南容に近づいて肩をぽんと叩いていた。
「何、言ってんだ。しばらく僕だってこと、気付かなかったじゃないか。それにおまえだって昔のままだぞ」
   南容は幼いときの話し方のまま、気さくにしゃべっていた。
「あ、え、うん、そのなんだ……どうしたんだ、急に故郷へ帰ってきて?」
   ふと、俺は訊いてはいけないことかなと気をまわしたものの、思い切って質問を投げかけてみた。
「そうか、それ告げてなかったな……実は、今度、僕は安定郡都尉になってなあ。今、その転属先に行く途中なんだ」
   南容は照れくさそうに話した。
   安定郡とはここ北地郡のすぐ西に面する郡だ。その郡の都尉と言ったら、確か、俸秩(きゅうりょう)が比二千石だ。今の俺が百石だから、それだけでも今の南容が出世していることが充分にわかった。同じ綬でも南容の青い綬と俺の黒い綬とではかなりの違いだ。おまけに都尉とは郡の治安を守る大役である。大勢の兵卒をはじめ部下がいる。それに対し俺はただの県吏、部下なんていない。そんなことに思いをめぐらせていると、ふと何か寂しい感覚に襲われた。
   そんな気分を押し殺し、俺は旧友との話を続ける。
「へえ、おまえも出世したもんだなあ」
   その時、俺の顔は気持ちとは裏腹に喜びであふれていただろう。俺に応じる南容の朗らかな顔がそれを物語っていた。
「こっちの方は、大変だったんだろ?   昨年末に何でも先霊羌が攻めて来そうじゃないか」
   今度は俺が南容から訊かれる番だった。
   俺も南容も幼いころから先霊羌の怖さを知っていた。やつらは羌族の一部族で、たびたび北に面する王朝の境界を越えてここ北地郡まで侵略しにくる異民族ってことを。特に昨年末の侵略は、多くの民が慣れ親しんだ住居をすて避難したほど、大規模なものだった。
「ああ、うちの霊州県は軍兵が充分じゃないから城から退いて南に避難したよ」
   当時を思い出し、俺は心の中で交錯するいろんな思いに気をとられていた。だから、俺は南容へ素っ気なく答えを返していた。
「ただ、避難しただけじゃないだろ?   おまえの活躍はさっき聞いたぞ。城から撤退するよう、県長に進言したのはおまえだろ?   それに、家の財を惜しみ避難をしぶった一部の人々を一喝したそうじゃないか。おかげで怪我人も出ず全員助かったそうだな」
   南容は、俺の話に心底、嬉しそうにしていた。
「敵を目前にして逃亡するなんて、褒められたことじゃないけどね…」
   俺は自嘲気味に話した。
「なーに、味方に兵がまったくなく敵兵の数が圧倒的だったら、要はどう被害を最小限に抑えるかだ…民の命も考えてな。その点、おまえの決断、それからその行動力は素晴らしいね」
   南容のやつは真顔で俺をほめあげてきた。幼なじみから正面切って讃えられるなんて、とてもこそばゆい感じがした。俺が反撃の糸口を見つける前に、南容は話し続ける。
「県吏なんかにしとくのは惜しいほど見事な采配だったそうじゃないか。俺がいた軍にもそういったやつはなかなか居るものじゃなかったぞ」
   と、まくし立てる南容。俺はこの幼なじみの言おうとすることをつかみかねていたが、話に裏があることに何となく気付いていた。
   このままでは昔のように何か南容に言いくるめられるかもしれない、と俺は思い、何かを言って話題を変えようとする。
「はは、何いってんだ。おまえも俺なんかより出世しただろ?   聞いたぞ。黄老道の反乱制圧のときには、おまえ、敵の将を三人も捕らえたんだって?」
   俺の強引な話の変え方に、いつも落ち着いている南容でも少したじろいでいた。他の人には判らないかもしれないが、幼なじみの俺には南容の顔に少し現れる心の動きがよくわかる。
   黄老道の反乱とは、昨年、ここからはるか東方で起こった民衆の反乱。こんな片田舎に住む俺でも知っていたことだ。その反乱は、ここ霊州県へ先霊羌が侵略したことより大規模だったらしい。そんな反乱軍の将を南容は三人も倒したんだから、故郷にその風聞が届かないわけはない。
「うん、まあな……たまたま運が良かっただけだ…」
   南容は褒められて喜ぶのではなく、逆に困った顔を見せていた。俺はそれを疑問に思う。人から褒められて喜んだり照れたりするのはわかるが、あんなふうに困るというのは変だと思った。
   突然、俺は遠い昔のことを思い出す、南容のやつは何かをたくらんで人を丸め込むとき、まず相手を褒め続けるってことを。そう思い通りにさせるものか、と俺は意気込む。
「それだけじゃないだろ、おまえが活躍したのって?   宮中の不正を指摘した文書を天子様に送ったそうじゃないか」
   俺は褒め上げる攻撃の手を休めなかった。南容の表情はしばし硬直する。
   俺が口にしたことは世間では知られていないことだけに、昔から動揺しない南容もさぞ驚いたことだろう。宮中での不正は関係者なら誰でも知っているが話題にすらのぼらない、いわゆる公然の秘密ってやつだった。それは、天子様の側に仕える、宮中の官吏(やくにん)が絶大な権力を持っており、皆、それを恐れて口にしなかったからだ。ところが南容のやつは、その不正が黄老道の反乱の原因になっていることを突き止めるやいなや、すぐに天子にそれを指摘した書簡を送ったそうだ。まったく大したやつだ。
   しばしの沈黙の後、南容は突然、声をだして笑い出す。
「ははは、そうか、おまえがこの十年間、変わってないってことは、僕も変わってないってことか!」
   南容は笑いながらも言葉を出していた。どうやら、俺の意図をくみ取ったようだ。
「幼なじみに小細工は必要ないね。言いたいことがあればそのまま言えば良いんだ」
   俺の顔は懐かしさからほころんでいた。十年も経っていて、その間に南容にいろんなことが起こっていたのにもかかわらず、言い回しや仕草にまったく違いがなかった。
「季盛、おまえには負けたよ。僕が何かをたくらんでるってのはお見通しのようだな」
   南容は悪びれもせず、素直に答えた。俺は少し得意げになる。
「俺を手玉にとろうなんて思うなよ」
   俺は笑いながら追い打ちをかけた。南容は観念した様子だ。
「では、率直に話そう…」
   南容は俺の目をまっすぐ見てきた。俺にとって南容の口から何が告げられるか見当がまったくつかないでいた。だけど、南容にとって少し言いにくいことであることは容易に理解できた。しばらく続く沈黙。
   思えば、俺と南容は幼なじみといっても、どの面でもずっと差をつけられっぱなしだ。南容という名、一つとってもこいつと俺とは違う。南容の名は元々、幼起という名だったが、こいつは論語に載っている南容という名の人物を慕って、加冠(せいじん)したばかりのときに自らの名を南容と改名したのだった。
「どうだ、季盛。僕と一緒に安定郡へ行かないか?」
   南容は一語一語はっきりと俺に告げた。それは俺にとって予想もつかないことだった。
   俺が呆然としていると、南容は再び口を開く
「僕は安定郡の都尉だ。自分の部下を誰にするかはある程度、自分で決められる。おまえは十何年も出世もできずに一県吏をやっているが、はっきり言ってそれはお前が文官に向いてないからだ。だけど、武官ならば、相当なもんだと思うぞ。小さいころから、よく一緒に馬に乗って狩りをしてたからわかるが、おまえの馬術も弓術も大したもんだ。ここで一県吏のままにしとくのは惜しい……」
   南容は一方的に語っていた。
   南容の語りの熱心さとは裏腹に俺の心は冷め切っていた。自分の能力が、幼なじみからとはいえ高位の官吏から認められているのだから、手放しで喜んでも良いはずなのだが、なぜか腑に落ちない。
「待て待て、おまえ、何か勘違いしてないか?   別に俺は今の地位に不満があるわけじゃないんだぞ。むしろ故郷のために働けて満足しているぐらいだ。昨年末だって、俺は故郷の人々を救える手助けができたし。俺は今の仕事を誇りに思っている」
   俺は突発的な言葉で南容の声をさえぎった。南容の調子に巻き込まれまいと咄嗟に言ったことの後半で嘘をついてしまっていた。
   南容は少し俺に怪訝な表情を向けていた。
「そんなことないはずだ。子供のころ、おまえ、故郷へ攻めてくる蛮族を自らの弓馬で倒したいって言ってたじゃないか。それが、今、おまえのその夢、かなえられるんだぞ」
   南容は俺の左肩に触れ、まっすぐな線を送っていた。何か俺の心にある嘘やごまかしの部分を見透かされているような気がしたので、俺はすぐに顔をうつむける。
「そんなの子供のときのたわごとだ。そりゃ、おまえは出世して良い気なもんだろうけどな」
   俺の一言で南容は手を引っ込めた。それがきっかけで俺は南容を一瞥する。俺の眼差しの先には南容の悲しげな顔があった。
   俺は自分の言った言葉を心の中で反芻する。すぐはっとなる。その言葉は明らかに失言だった。自分の本心を隠そうとするあまり、思ってもいないことを口走っていた。それは心ない一言だ。すぐ言い直そうとするが良い言葉が思いつかない。そうこう考えている間に南容の一息の音が聞こえる。何か言おうとしているんだ。
「それが季盛の本心か?   わかった、もう僕からは何も言わない……それより、すまなかった。どうやら僕のお節介だったみたいだな」
   南容は眉をひそめ、そっぽを向いた。
   その変わり身の早さに俺は頭にきた。いや、その早い心変わり自体よりも、俺のたった一言の間違いを疑いもせず誤解したまま、南容が次の行動にあっさりとうつれるのに、俺の怒りが向いていた。とにかく俺は腹を立てていた。
「安定郡都尉どのの目から見れば、十数年も県吏をやっている者なんて哀れな存在だろうな」
   そのときの俺は頭に血が上って気がまわらず、相手を傷付けること以外、考えていなかった。俺の口から出た暴言は、当たり前だけど即座に南容の耳へと伝わり、その表情を曇らせていた。
   その様子がちょうど、南容が昔のように怒鳴り声であたり続ける前触れだと、俺は思いこんでいた。ところが南容は俺の予想に反して悲しい顔を向けていただけだった。怒りにあふれた俺の胸中にほんの小さな後ろめたさができ、時がたつのに従い広がっていった。
「では、僕は今すぐ、安定郡に向かう。じゃあな」
   長い沈黙の後、南容の口から出た言葉は、はっきりわかりやすいものだった。南容はくるりと部屋の出入り口の方を向く。こちらを振り返ることなく、あいつはあっさり外へ出ていった。もうあいつの眼中に俺の姿はなかった。