目をとじれば   二〇歳
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   俺は壁に身をあずけ、目をとじ、考えをまとめている。
   俺が出しゃばれることじゃないかもしれないが、それでも気付けば、いつだって、俺なりの考えをまとめている。だけど、いつだって、それが俺の口から外へ出ることがなかったような気がする。

   俺は部屋の入り口に立つが、他の五人は部屋の真ん中にいる。そこには榻も牀も席もあるというのに誰一人、座って話そうとしない。それだけ事態が切迫していることが部屋の中からここの出入り口までひしひしと伝わってくる。
   部屋の真ん中の五人の中には、程徳謀も含まれていたが、あの徳謀でさえ、声の調子にどこかしら落ち着きがない。そんな中で、この場の大将である、孫文台はわざとらしいぐらいに声も仕草も落ち着いてみせている。

   去年の漢人との戦いでは、何度も緊迫した状況にさらされていた。だけど、それは対抗すべき兵があってのこと。偵察に来ただけの我々が持っている兵卒はまったくない。
   それどころか、ここには一人の兵卒たちもいない。

   おまけに相手は漢人じゃない。羌族という騎馬にたくみな異民族だ。
   俺や徳謀は鮮卑と何度も戦っているので、騎馬との戦いを熟知している。だが、あと四人は理屈でわかっていても実感がないだろう。これは大きなことだ。
   まだ遠くに羌族の軍がいるとはいえども、ここの住民を引き連れて逃げる間もないかもしれない。
   一体、俺たちに残された時はどれほどだというんだ。

「四日です。ただし、この数字は鮮卑族の行軍を参考にしているので、羌族の軍はもっと早い可能性があります」
   まるで俺の心の声に答えるかのように、部屋の真ん中から声が聞こえてきた。それは徳謀の声だ。
   四日。
   それは俺の感覚からいっても、早すぎず、遅すぎず妥当な数字だ。自分の考えを言葉に入れ込まず、わかる分だけ率直にいっているのは、徳謀の考えにも余裕が出ていない証拠だ。そうわかっていても俺にも何か、この状況をうち崩す考えなんて思い浮かばない。

   それどころか、俺の体がふるえはじめている。
   理屈では冷静だけど、体が幼き頃の感覚を忘れず思い起こしているからだろう。そのふるえが恐怖からじゃなく高揚しているだけだとわかっている。自ら作っていた鮮卑への恐れ。それに打ち勝ったときから生まれはじめた高揚感だ。

   俺はこんな絶望的な状況で、まだ戦おうとしているのか?
   未知の敵、羌族に。

「よし、決めた」
   突然、俺の耳のその声が勢い良く飛び込んできた。文台の声だ。俺の迷いを消し飛ばしそうなほどの覇気があった。おかげで自分の内へ向いていた気が孫文台の方へと向く。何を決めたのだ?
「…援軍を要請する。京師の軍がここまで来るのが一番なんだが、どう考えても先に羌族の軍がつきそうだ。だから、まず長安からの援軍を要請したい…」
   孫文台の言葉は一つ一つ明確だったが、俺は戦のことしか気が向かないでいた。
「戦うんだ」
   その俺のつぶやきは当然、孫文台や徳謀には届かないでいた。だけど、俺自身が戦うことを決意していることに俺は気付いた。
   今、ここにはまったく兵卒はいない。だから援軍を呼ぶ。俺にもわかる。だけど、敵の羌族が来るまでに援軍が間に合うのか?
「…こんな城でのんきに待ってたら、多分、京師の軍どころか、長安の軍が来る前に、俺たち、ここの住人ともども殺されてしまうぞ」
   俺の疑問に呼応するように孫文台の目の前の男は答えた。ここまではっきりと聞こえるぐらいの迫力ある声でだ。その声の主は孫文台の部下の一人、徐子直だ。
「それはわかっている。ちゃんと手はある」
   と孫文台。徐子直の迫力に押された様子はなく、相変わらずその声は力強い。徐子直が続けて何か言おうとしたのをやめたほどだ。そのためか、俺には孫文台の発言が強がりやはったりみたいなものじゃないような気がした。
「住人たちのことを考えれば、避難が良いんだろうが、危険が大きすぎる。道中、羌族の軍はおろか、無関係な賊に襲われかねない。何より、ここ美陽を羌族に譲り渡してしまうと、漢人すべてにとって喉元に刀を突きつけられたようなものだ。一気に京師まで蹂躙されてしまう」
   と孫文台は穏やかに続けた。孫文台の言うように、援軍を呼び戦う以外に避難する手がある。だけど、二つの危険があると彼は考えているようだ。ここ美陽の住人の危険とそして漢人すべての危険。俺の家族が殺されたみたいな状況が全土に広がるんだ。それはなんとしても防がなければ。
   だとすれば、長安から援軍を呼ぶことが重大となる。目先のことではここの住人たちが犠牲になるし、近い将来では漢人すべてが犠牲になる。そのため失敗は許されない。敵軍を前に住人たちを見捨て援軍を呼びに行くわけにはいかないので、誰が使者をたてて援軍を呼ぶんだろう。だとすれば、一体、誰がやるんだ?   敵軍がここ美陽に近づけば近づくほど、ここの住人たちは騒ぎ立てるだろう。だから住人たちをまとめ上げるため、人手は一人でも多く必要だ。
「東への使者は決めている…」
   文台の力強い声はまたも俺の心をつかんだ。次の言葉を待つ。文台は一呼吸もおいてないはずなのに、えらく長い間に感じる。
「…程徳謀どのにまかせようと思う」
   文台はそういって、程徳謀を見つめた。その場にいた他の三人も遅れて徳謀をみる。徳謀ならこんな重大な任務も任せられる、とそう俺は安心していた。
   数人の眼差しにさらされた徳謀は動じない。こういった落ち着きがあるときは、いつだって徳謀に覇気が溢れているときだった。
   徳謀はゆっくりと文台を見返す。そしてゆっくりと口を開く。
「お言葉を返すようですが、私より適任者がいます」
   そう徳謀は文台に言い返した。この場で徳謀より使者に適任な人物なんているのか?   孫文台、使者の任よりここ美陽で陣頭指揮に立つ方が重要だ。徐子直、最も古参の人物で信用できるが、馬術に長けていないため、使者の任に不向きだ。兪伯海、俺より若年者で使者の経験もない。となると、残りは呉伯明か?   だが、徳謀が辞退するほどのような気がしない。
   そう考え込んで、ふと面を上げると、徳謀の眼差しが視界に入る。俺の方を見ているだ。その視線につられて、俺は背中の方を見そうになったが何か違う。そうだ、徳謀以外に、孫文台のも徐子直も兪伯海も呉伯明も俺の方を見ている。まさか俺を見ているのか?
   その疑問に答えるように、徳謀は俺に向かって手招きしている。何も思い浮かばないまま、俺の足は素直に徳謀を初めとする五人の元へと歩を進める。あと二、三歩だ。
「おい…」
   突然、俺は声をかけられた。徐子直からだ。
「適任者って韓義公じゃないですか。徳謀の従者じゃないですか?   こんなやつに任せて大丈夫ですか?」
   子直はまくし立てた。それは俺に向けられていない。俺を指さし、徳謀に面と向かっている。まるで俺はのけものだ。
   俺はくやしさからたまらず徳謀を見る。徳謀はやはり動じていない。自らの発言を後悔しているのか、反論するのかその表情からはまったくわからない。
   徳謀は子直に向き直る。
「義公は幼き頃から馬に慣れ親しんでいます。私より馬を速く長く走らせることができます。責任感も人一倍、強く今回の任には適任です」
   徳謀は何の迷いもなくそう言い切った。
   とても気分が良い。
   過分な言葉だがここ一年の戦いで徳謀が俺のことをみていてくれたことは確かのようだ。俺は喜びで顔を崩れるのを抑える。
   徐子直のうなり声で俺は現実に引き戻される。
「えー、俺なんかより馬になれていることは判ってます。徳謀どののことを疑っているわけじゃありません。だけど、援軍への使者ということは俺たちの命を預けるってことですよ?」
   徐子直の棘のある声がまともに俺の耳と心い飛び込んできた。にらみたい衝動にかられる。
「義公ならやり遂げます!……いや、その……俺はそう信じてます」
   そう言ったのは兪伯海だ。去年、黄巾賊との乱戦の中、一人、包囲されていたところを俺に助けられた。それから考えると随分、たくましくなったものだ。しかも今、こうして俺の弁護をしている!
   だが、それに反し徐子直の表情は険しくなっている。
「文台、どう思う?……俺は、義公じゃなかったら、伯明でも良いんだぜ。俺たちと同じ南方生まれだけど、もう十年以上、馬に乗っていることだし」
   徐子直はやはり俺の方もちらりとも見ずに呉伯明の方へ視線を移した。それにつられみな、呉伯明を見る。急なことで呉伯明はどう対応していいかわからないといった様子だ。
   確かに徳謀以外だと、呉伯明は適任だった。俺もそう思う。徐子直に俺はないがしろにされているのに、不思議と怒りが沸いてこない。きっと真っ当な意見のような気がしているからだ。

   だけど、そんな自分に怒りを覚えるようになっていた。徳謀の俺への期待はどうなる?   俺はここの誰より馬を早く、そして長く走らせられるだろ?   自信を持て。適任じゃないか。それにここ一年、戦場でいろんな経験を積んできたじゃないか。それに責任感だって、それに責任感だって……

「待ってください」

   力強い声が俺の腹から飛び出ていた。声の出元を確かめたいがために五人が一斉に俺の方を見る。もう矢は弓から放たれたんだ。
   徐子直がまず俺に声をかける。
「おまえからも言ってくれ。『僕にはこの任務を遂行する実力も責任感もありません』ってね…」
   徐子直は俺の気持ちなんてくんじゃいない。一瞬、気後れする心地だったが、俺は引くつもりはない
「……そうすりゃ丸く…」
   徐子直が続けようとするが、俺は声を出す。
「いえ、ぜひ、その任務を俺に申しつけてください」
   俺の声は徐子直の続く声をさえぎった。徐子直からの反論はなく、かわりにすたすたと俺の元へと近づいてくる。俺の目の高さより少し低い位置に徐子直の眼があった。その目は明らかに俺に敵意を抱いている。今までの陽気さが嘘のような変わり様だ。

   何か恐いことが起きる、そんなことを強く感じてしまうには充分な間があった。

   痛っ

   俺の腹に激痛が走る。目で腹を追わなくてもその原因はすぐわかる。徐子直が彼自身の拳を俺の腹に強く当てたんだ。幸い、俺は痛みで声を漏らさなかったし、拳の当たっている場所に見向きもしてないし、ずっと無表情にしている。だから俺の心の内は徐子直に伝わっていない。
   この調子だ。焦らず待つんだ。いずれ腹を殴る以上に、強い衝撃をこの徐子直にしてやる。

   やがて俺の視界で徐子直はにやりとした表情を見せる。
「戦時下の使者に何が起こるか、わかんないんだぞ。もしかすると、羌族の斥候が城を孤立させるために、使者を待ち伏せしているかもしれない。俺のなまくらな拳をよけられずにどうする?」
   拳の激しさとは反対に徐子直の口調は穏やかなものだった。
   こいつは勝ち誇っているんだ。俺は激しい怒りを感じる。今にも力任せに横からぶん殴ろうとその様子を心で描いている。

   これは罠だ。

   俺を怒らせて、俺の面目をつぶし、俺の使命を奪う気だ。俺はこいつの挑発にはのらない。怒りの感情を少しでもみせてやるものか。
   冷静に、沈着に、対処するんだ。そう俺が何も感じていないことを徐子直に示せば。そしてすべては俺の予期していたことを徐子直とこの場にいる人々に示せば。一言だ。一言で決める。

「いえ、あなたの力で俺を倒せるとは思ってません」
   俺は徐子直の問いにはっきりと答えた。これでどうだ。

   徐子直は再び笑みを浮かべる。
   少し経つと大声で笑い出す。
「はははははっ、こりゃ、おもしろい。おまえ、俺の力をちゃんと見抜いていたって言いたいのか?……それと同じように、敵軍や賊のこともお見通しだと?」
   今までの恐い雰囲気が嘘のように徐子直はまた明るく朗らかな調子だ。言っていることは俺が仕掛けた通りだ。だが、その反応は俺の予想外だ。
   拍子抜けだ
「ははは、やはり面白い。おまえだったら、俺の命、預けてもいいぞ」
   俺の反応を待たずに徐子直は言い続けた。
   徐子直の軽く言ったその一言。だけどその言葉は重く俺の耳に響いた。顔は笑い声と同じく笑みで崩れているが、彼の目は俺の目をまっすぐとらえている。俺は確信した。

   今まさに俺は彼に認められたんだ。

   子直は俺に背を見せる。他の四人に何か呼びかけようとしている。
「なぁ、文台、良いだろ?   徳謀どのの言うようにこいつが適任だ」
   子直はすっかり正反対の意見を口にするようになった。臆面もなく文台にその意見をすすめている。回りの者は文台に視線を移す。答えを待っているんだ。俺もその一人。俺の真価が問われる機会が与えられるのか、そのすべては孫文台が今、握っている。

「もう俺が決めるまでもないだろ?……では、改めて、韓義公に命じる。京師、それに長安へ援軍要請に赴いてくれ……詳しくはこの後だ。書簡を書いて手渡す」

   文台の眼差しはするどく俺をとらえる。それは攻撃的ではない。力強くこちらに活力が伝わるような眼差しだ。俺に命令が下った喜びと相まって思わず見とれてしまいそうになるが、気を引き締める。ゆっくりと目を伏せる。

「了解いたしました」

   そう言って文台たちに背を見せ、俺は出口の方へゆっくりと歩みだした。
   嬉しい、という気持ちが沸いてきてもいいはずなのに、俺の心に過ぎるのは今までの辛かったことや苦労したことばかりだ。徳謀以外の人々に俺がみとめられるようになるまでの道は長かった。

   俺は知らず知らずのうちにこんなに遠くまで来ていたんだ。

   足を踏み出しながらも万感の想いが吹き出している。おかげで俺の胸はいっぱいだ。
   それらの想いを一つ一つかみしめたく、目をとじたくなっている。

   だが、思いなおした。
   まだ、やるべき重大なことがたくさんある。
   だから、目をあけ先をしっかり見据えるべきだ。


   これからまだまだより遠くまで行くために。