目をとじれば   一六歳
176-
<<小説本編の入り口へ戻る
<<目次
<<一五歳


   俺はまず目をとじ、目の状態が一番、良くなるのをまった。
   目を開き、見逃さないぞ、と心で言い聞かせる。毎度のこととはいっても、具体的に何を探せばいいのか、あまり理解できていないでいた。前回も前々回も俺が見つけたんじゃない。とにかく、今回、ここの県丞、つまり県で二番目に偉い人がどこにいるか、どうやって面会するのか、というような手がかりになるようなことを探せということだ。
   命じた本人、程徳謀は、市井に続く通りで俺の先を歩いていた。
「正面から訪ねるんじゃなくて、まず相手の評判を調べるのが肝心だ」
   そう、徳謀は前を向きながら後ろの俺に言葉を投げかけた。そういえば、今まで、「刺(めいし)を渡して面会を求めるなんて相手にしてくれないから直接、尋ねた方が良い」と徳謀が主張し、官府、つまり相手の職場に徳謀が直接、訪ねていって、ぎこちないやりとりが何回かあったな、と思い出し、吹き出しそうな気分になる。徳謀が背を向けているといっても、そんな気分を顔に出すのもはばかられる。

   どうやら、道の先の店で商売をしている若い男と徳謀は目があったらしい。その男は「いらっしゃいませ」といわんばかりの会釈をしている。
   徳謀はその若い男と顔を合わせたまま、立ち止まる。
「すまないが、ここの県丞のことで何か知っていることはないか」
   徳謀は唐突に切り出した。普段、徳謀に付きっきりの俺でもその行動には驚かされた。いつもの言葉巧みな徳謀から想像できない。
「あのですね、その…」
   若い男は笑みを浮かべながらも、しどろもどろになっていた。無理もない。予期しない質問に誰だってこうなる。しかし、どうも、それだけじゃないようだ、と俺は変に気になっている。
   店の奥から別の若い男がやってくる。とはいっても、今、あたふたしている男より五つは年長だ。このちょっとした騒動にかけつけてきたに違いない。
「いや、どうもすみません」
   奥から出てきた男は歩きながらそう朗らかに言った。近くまで来るとまた口を開く。
「すみませんね。さっきこいつに、『誰か、県丞のことを聞いてきたら、知らない振りして適当にあしらえ』って命じたんですよ。こいつ、いざそのときになると、変に緊張しちゃっているみたいで……」
   新手の男はそう言った。確かにそう言った。「俺たちをあしらうつもり」なんてどういうつもりだ?   それよりこの男は、そんなことを言って俺たちの気分が害しないと思っているんだろうか?
「なぜ、県丞のことを聞く者を   はぐらかそうとするのですか?」
   徳謀は新手の男に訊いた。俺は徳謀が尋ねていることより、新手の男がすぐ手の内をあかしたのかが気になっていた。
   新手の男は包み込むような優しい笑顔を返す。
「いや、なにね。近頃、県丞に取り入ろうとする物好きな若者が多くて、県丞だけじゃなくこっちまで迷惑しているんですよ。それだったら、いっそのこと、嘘をついてでも近づけないようにしようと思いましてね……そう命じたんですが、こいつ、うまく嘘をつけなかったようです」
   新手の男はその笑顔と不釣り合いにはきはきと言葉を出した。
   徳謀は両腕を前に組み、視線を落とす。俺だって、こんな訳のわからないことを言われたら、例え会話中とはいえ、考え込みたくもなる。新手の男はいやな顔一つせず、笑顔のままだ。
   徳謀は面をあげる。
「あなたの言葉で一つ腑に落ちないことは、なぜ、それを我々にうち明けるかです。その『物好きな若者』にしたように、我々も適当にあしらえば良いのではないのでしょうか?」
   徳謀はじっと新手の男を見ていた。
   その眼差しにひるむことなく新手の男はさらににこりとする。
「それはあなたが官吏(やくにん)だからです」
   と新手の男。
「なるほど……そこらへんの身元のわからないやつらより信頼できるってわけですか…それに官吏が県丞のことを尋ねるのは別に不思議じゃない……」
   と考え込むついでつぶやいているような徳謀。
「……だけど、直接、県府に行かずに、こんな市井で県丞のことを訊いて回るなんて、何か訳ありだ……でしょ?」
   まるで徳謀の言葉を引き継ぐように新手の男は言った。
   徳謀は怪訝そうな表情を男に向ける。男はにっかりと笑みをみせる。
「まぁ、こんな店先ではなんですから、私についてきてください」
   そう言うだけ言って、男は徳謀と俺の肩をすり抜け、表の通りを歩いていった。
   俺が「どうしましょ?」と声をかけるより先に、徳謀はその男の後へ着いていった。、
   考える間もなく、俺も後を追う。もちろん、何かあったとき、徳謀を助けられるように自分がどう動くか、俺は一歩、足を前に出すたびに、いろんな男の動きを想定し、そのとき、自分がどう動けばいいのかいちいち思い描いている。

「あなたたちは運が良い。今、県丞はちょうど非番です。少しだけなら対面できるかもしれません」
   と先導する男は言った。その言葉に俺は違和感を感じる。
「失礼ですが……あなたは県丞のお知り合いか何かですか?」
   俺の疑問は、その徳謀の一言に集められていた。
   男は歩調をゆるめていたようだった。男は自らの肩越しからこちらをちらりとみる。
「あぁ、どうやら申し忘れていたようですね。それはさぞ、私のことを不審におもったことでしょう。県丞…つまり、孫文台は私の兄です。そして、私は孫幼台と申します」
   そういって、男は歩きながら、器用に礼をした。なるほど、弟だから、兄である県丞のことについて詳しいのか。確かに、俺たちの探している県丞は孫文台という名だ。だけど、本当のことを言っているとは限らないと、俺は返って自らの気を引き締める。
「私は程徳謀と申します……幽州の官吏をやっています。こっちは私客の韓義公です…」
   徳謀も俺も歩きながら、ぎこちなく礼をした。
「中山郡の臧太守から県丞どののことは聞き及んでます…」
   その徳謀の言葉を孫幼台と自称する男はこちらを見て聞いていたが、行く先に顔をむきなおした。
「失礼ですが、私は官吏(やくにん)の兄と違い、賈人(しょうばいにん)です。だから、官吏の人間はよくわかりません…」
   孫幼台はその話をつづけることをやんわりと遠慮した。

   とんとん拍子にいきすぎる、そう俺は感じていた。それだけを思っていたら、幸せなのだろうが、今までが今までだけにこれ以上、うまくいかないことを俺は予感していた。これで孫文台という男が徳謀の求めている男ではなかった場合の徳謀の落胆が大きくなってしまうことを俺はおそれている。
   そんな気後れとは裏腹に三人の足取りは先へ先へと進んでいる。


   もうそろそろ待つことにあきていた頃、孫幼台は再び姿を見せた。
   俺と徳謀が屋敷の前で待っているところにだ。
   幼台はさっきまでの笑みとは少し違う表情を浮かべている。そうだ、苦笑いだ。何があったのだろうか。
「お待たせしました…」
   幼台は朗らかな顔を向けた。
「面会はできないのですか?」
   徳謀は率直に口へ出した。どうやら俺と同じように、徳謀は幼台の様子を見て取ったらしい。幼台はまた苦い笑みを見せる。
「いえいえ、その逆です。兄は今、ある人と面会中なんですが……それでもあなたたちを通して良いとのことです…」
   幼台のその言葉で徳謀の表情はぱっと明るくなった。
「では、手短に挨拶を済ませます。案内をよろしくお願いします」
   徳謀は明るい口調で言った。
「いや、もう私の付き添いは必要ないようです……兄、曰く『一緒に飲もう』とのことでした。初対面どころか会ってもいない人たちと自分の屋敷で飲もうだなんて、度量が広いというか、何というか……いやはや、同じ兄弟とは思えないですね」
   幼台は文台のことを思い出したのか、顔を引きつらせていた。
   徳謀はしばらく言葉を失っていた。徳謀も俺と同じことを感じているだろう。こちらが恥をかくことも覚悟で勇み足になっていたのに、それを覆すような申し出が県丞からあるなんて。
「そ、それはありがたい申し出です」
   ようやく徳謀は声を出した。そして前へ進もうとする。俺は後を追う。
「突き当たり右にいってしばらく進んだ後の右手の部屋です。近くまで行くとわかるでしょう」
   幼台は徳謀の背に向け、呼びかけた。徳謀は背中に向け器用に軽く会釈をした。

   俺は徳謀の後について行くだけだった。徳謀はこれから起こることに全身を緊張させているかもしれないが、俺はこの背中を見ると、緊張しないといけないときでもなぜか安心してしまう。今までもそうだったし、今も不思議とそうだ。
   徳謀が言うに、去年の臧太守のときと同じように、俺にも同席して欲しいとのこと。徳謀や県丞と同じ場にいるなんて、俺だけその場で浮いてしまうのは決定だ。もうどうにでもなれ、という気持ちがなくもない。
   それにしても、会ったこともない人を宴(うたげ)に招き入れるなんて、県丞の孫文台という男は今、酔っぱらっているのだろう、と俺は思っていた。
   屋敷の中だし、ここから見えないが、太陽はまだ西の空にあることは確かだ。

   人の気配がした。
   徳謀もそう感じたらしく、右を向いている。視線の先に二人の男が向かい合わせに座っていた。どちらが県丞かはわからなかったが、どちらかがそうだと感じる。右の男は三十直前の徳謀より五つぐらい若い感じで、左の男は徳謀より年長で、三十はゆうに越えている。
「県丞どのですね?」
   徳謀は一室の二人に声をかけた。
「あぁ、あなたが弟の言っていた程徳謀どのですか。どうぞ入ってください」
   右の男はそう告げた。彼が県丞の孫文台だ。彼の右側には酒壺があるものの、その声といい、場の雰囲気といい、孫文台という男が酔っぱらっているとは思えない。そして、その男ともう一人の男はこちらへ向き直る。
   徳謀はつかつかと県丞のそばまで寄っていく。
「初めまして。幽州の官吏、程徳謀です。こちらは私客の韓義公です」
   そういって、徳謀と俺はそろって礼をした。顔を上げると、県丞の暖かい眼差しがあった。
「幽州の官吏?   今日はその肩書きをまとって来た訳じゃないのでしょ?」
   県丞の孫文台はそういって、声高く、笑った。あたかも核心をついているような、思わせぶりな言葉。だけど、その姿だけみると、酔っぱらいだという説明もつく。だけど、もう俺はそんな考えをもてずにいた。だからといって俺は県丞を警戒しているわけじゃない。この県丞はなんていうか、兄弟そろって、人を警戒させない親しみがある。
   徳謀が唖然としていたせいか、妙な間があく。
「まぁ、立っているのもなんですし、そこの牀に座ってください」
   そう言ったのは、県丞の左にいた男だ。まだそれが誰かは俺にはわからない。県丞はそれに同意したかのようにうなづく。
   徳謀は右の牀にすわる。のこった左の牀に俺がすわる。

「まずお二人に今、何の集まりか説明した方が良いようだぞ」
   俺たちが座ったのをみはからったように、左にすわる男は県丞に向けてそう言った。県丞はうなづく。そして、彼は徳謀の方を見やる。
「弟の話だと、程徳謀どのは中山郡の臧太守どのから俺のことを聞いているってことだから、臧太守どののことから話し出した方が良いでしょう」
   県丞は確かにそう言った。県丞の弟、孫幼台は徳謀の人間関係に無関心な素振りを見せていたのに、きっちり耳にしたことを県丞の孫文台に伝えていたようだ。抜け目がないというか…
   徳謀は県丞の言葉に「お願いします」と言って同意した。
「すべては七年前のこと。臧太守どのはそのとき、揚州刺史という官職でした。ちょうど、揚州の会稽郡で起こった兵乱をしずめるための軍を率いてました。そのとき、俺は司馬という官職についていて……それから、会稽郡の主簿という官職についていたのは、この朱公偉どのです…」
   県丞は言葉の最後に左に男を手のひらで指し示していた。やはり、この男も官吏なんだな、と俺は思った。徳謀は一礼する。つられて、俺も一礼する。
「まぁ、臧太守どのと、孫文台とはそのとき、同じ軍にいて、何度も会っていたそうなんですが、私は文官で、直接、臧太守どのと会っていません。だけど、私と文台とは知り合いでした」
   朱公偉と呼ばれる男は県丞の言葉を補っていた。県丞は不意に朱公偉の方を向く。
「それから公偉は七年間、官位・官職は変わっても文官のまま。当人自身も武官に縁がないと思っていたのに、ついに武官になっちまうんだからな。人生はこれだから面白い!」
   県丞は嬉々と朱公偉に話していた。朱公偉はうつむき苦笑いしている。朱公偉は再び俺と徳謀の方を向く。
「実は今、はるか南の交州で兵乱が起こっています……もう三年目です。そこで私が交州刺史に任命され、その地の兵乱をしずめに行くこととなりました。今日の集いはちょっとした私の送別会というわけです」
   交州刺史の朱公偉は俺たちにそう説明した。目の前にいる男が一軍を率い、交州の地に平穏をもたらす男だなんて、俺には思えなかった。だけど、それを疑っているわけではない。
「ということは、七年前の臧太守どのと今のあなたは同じ立場というわけですね。臧太守どのも刺史になる前までは武官についたことはなかったはずですから」
   徳謀は合いの手をいれた。県丞は俺たちに面を向ける。
「そうそう、任地には行ってなくてももう『交州刺史の朱公偉』ですから、これからは『朱交州どの』って呼ばないといけませんよ」
   県丞は、からかうような笑みを浮かべていた。対照的に交州刺史の朱公偉はまた苦笑いしている。戦地へ赴く前の雰囲気とはほど遠い。悲壮感は感じられない。悲観して気後れするよりは、こちらの方が良い、なんて俺は感じていた。

「朱交州どのはこれより戦地に向かうということですが、孫県丞どのは同行しないのですか?」
   徳謀は真面目な顔を県丞に向けた。県丞はきょとんとした様子だ。
「まだ俺はこの地に県丞としてやることがたくさんあります……それに京師(みやこ)から命令が下ってませんし…」
   少し間があき、県丞は答えた。
   その答えに徳謀は表情を変えなかったかが、きっと落胆していることだろう。戦の経験のない武官に、武官へ復帰しそうにない文官の二人。どちらとも徳謀が身を投じ仕える人物だとはいえない。
   もう目的はないんだから、後はこの会合が終わるのを待つだけだ、と俺は気持ちを切り替える。
   県丞は再び刺史の方を向く。
「…だけど、今度、兵乱があるときは俺、戦地に立ちたいと思っている。文官として後方から支援するのも大事だけど、前線に立つ方が俺の性に合っている。こんなこと言うと不謹慎かもしれないが、何か、また兵乱討伐に出るようなことがあれば、次こそ、俺を配下に加えてくれ」
   県丞は熱心に刺史へ自分の思いを伝えていた。
「さぁ、今、私はこの兵乱のことで精一杯だ。それ以降のことなんて考えられない。だけど、君のその申し出を覚えておこう」
   刺史はまっすぐな眼差しを県丞に返した。

「孫県丞どのは、なぜ文官より武官になりたがるのですか?」
   徳謀は真顔で県丞に訊いた。横を向いて互いに向かい合っていた刺史と県丞は徳謀の方へ向き返る。
   県丞は両腕を前に組み考え込む。やがて、ゆっくりと話し出そうとする。
「あまり言葉に表すのは得意じゃないんですが……俺は十代のころから海賊や賊軍の類を目の当たりにしていました。そしてそいつらが略奪や強奪しているところも目の当たりにしました。住民たちはそいつらの力に為すすべもなく倒れていきました。俺は若いとき、後先考えずそいつらへ一人で立ち向かっていったときがありました。もちろん、そういうときは、命を落としかけましたが……そして、立ち上がるときは思ってました、次は軍を率いて、海賊や賊軍の類を討伐してやるんだって……こんな理由じゃ駄目ですか?」
   県丞は熱心に徳謀へ語っていた。徳謀は深々と何度もうなづいていた。いつの間にか俺もその話しに引き込まれていたことに気づく。県丞にとっての海賊や賊軍、それは俺にとっての鮮卑の軍なのかもしれない。だけど、俺は一人でそいつらに立ち向かおうとしていた。今、聞き逃しそうになった県丞の言葉に重大なことがあった、確かに。
   右で動く何かがあったので、俺は顔を右に向ける。俺の目には、徳謀が両手で県丞の両手をとっている姿がうつっている。徳謀は県丞をじっと見つめている。
「充分、私にあなたの気持ちは伝わりました。私も武官を志す者です。志はあなたと同じです」
   徳謀の声に熱がこもっていた。それは、また俺の知らない徳謀だった。そして、徳謀にとって倒したかったやつらが何なのか、知らないことに俺は気づく。
   徳謀は県丞の手を握ったまま、刺史の方を向く。
「私からもお願いです。次は孫県丞どのを招き入れてください」
   今度は、刺史をじっと見つめていた。
   まずい、徳謀がこのまま引き込まれては、そう俺は感じた。ここに徳謀が求めていることはないのに、今、熱くなってはだめだ。
「徳謀どの……だけど…」
   俺の思いは口に出ていた。徳謀は刺史に向けていた視線をそのまま俺の方へむける。
「そうだ、義公、ちょうど良い。私は決めたぞ。私は武官として孫県丞どのに仕える」
   徳謀の声に曇りは一つもなかった。ついに言ってしまった、もう取り返しがつかないかもしれない、と俺は内心、焦っていた。ちらりと視線を走らせると、県丞も刺史もきょとんとしている。
   その沈黙は県丞がやぶりそうだ。
「あなたのような立派な人物を配下にしたいという気持ちはあります。だけど、俺は県丞だ。あなたにふさわしい武官の官職なんて持っていない。残念ですが……」
   県丞が言い終える前に徳謀は口を出した。
「いえ、今でなくても良いのです。だからこそ、朱交州どのに頼んでいるのです」
   徳謀の声にいまださめた様子はなかった。実際、徳謀が県丞と共に出陣するなんて何年先になるかわからない。それなのに、簡単に決めてしまうなんて。だけど、俺には徳謀の気持ちがわかるような気がする。この県丞には徳謀が仕えたくなるほどのことはある。
   県丞は徳謀の手を軽く振り払う。そのため、再び徳謀は県丞の方を向く。県丞は口を開く。
「いや、あなたの申し出をいやがっているから言い訳をしているということではありません。俺も朱交州と同じで、今、俺は県丞の役職で精一杯なのです。それより後のことなんて保証しかねます……だけど、あなたのことを忘れないでいることは保証します」
   県丞は言葉の最後に笑みを浮かべていた。
   徳謀は納得したと言いたげに一礼する。俺の運命も決まった。俺はこの決定に納得しているんだろうか、今はまったくわからないでいる。

「大事なことは決まったんで、まぁ、飲んでください」
   手際よく、県丞は向かって右側の酒壺から斗(ひしゃく)ですくって酒を盃(さかづき)に入れ、徳謀の目の前に出していた。
   徳謀は盃を両手で丁重にうけとる。目を伏せ、県丞に敬意を示している。徳謀はゆっくりと酒に口を近づける。
   俺の視界の端に盃が現れた。徳謀の盃とは別の盃。何事かと思い、その盃を持つ手を辿っていく。そうすると、そこにはこちらを見る県丞の顔があった。
「さぁ、おまえも飲め」
   目が合うと、県丞は元気よく命じた。俺は思わず困惑の表情を浮かべてしまう。
「俺、飲んだことないんで…」
   気持ちは盃を受けたい。だけど、こんな席で、刺史や県丞、何より徳謀の前で失態を見せたくない。
「それだったら、これは初めての酒に打ってつけだ。きつくなく童子(こども)でも飲めるほどだけど、香や味に深みがある……あ、別におまえが童子(こども)だと言っているわけじゃないぞ。それに、俺は公偉と久しく会ってなかったから、つもる話がたくさんあったんだ。酔っぱらって話した内容を忘れたくなかったんで、これは軽めの酒だ」
   そう熱弁をふるった後、県丞は差し出した右手をこちらへさらに寄せた。
   俺は差し出された盃を丁重に受け取る。県丞の手が盃から離れ、完全に盃は俺の手にゆだねられている。ゆっくりと手の中にある水面を口へと近づける。
   俺は目を閉じる。これが初めてだ、と歳をとってからも思い出せるよう、味と香を深く覚えるために。