目をとじれば   一九歳
176-
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   目に入った汗に思わず目を閉じてしまったが、すぐに開け、再び軍の行く先を見つめる。だけど、どうしても何もなさそうな行く先より、にぎやかな回りが気になる。
   今、俺は馬に乗っている。まわりには俺と同じく戎服に身を包み馬に乗っている者がいる。そいつらの左の向こうに数え切れない多くの者たちが同じ方向へ歩いている。弩をかまえる者二名、矛を向ける者二名、戟を携える者一名、計五名一組が延々と規則正しく連なっている。聞くところによると全部あわせて八千人以上はいるらしい。着る者はみんな同じ。兜をつけたり鎧をつけたり。つまり戎服。騎馬と歩兵の違いはあるものの、俺と同じ戎服だ。

   これが軍というものだ。

   ここは辺境ではない。だからこそ余計に漢人にとっては重要な戦だ。
   俺の前方には同じく騎馬の程徳謀と佐軍司馬の孫文台がいる。前へ進んでいる。
   徳謀と孫司馬が馬首を並べる。今では当たり前のことだけど、よくよく考えてみると、不思議な光景だ。まるで、二人の後ろ姿が多くを語っているようだ。
   三年前、確かに俺は、当時、県丞だった孫文台、それと州吏だった程徳謀とが主従関係を結んだところを目撃した。だけど、それは条件付きだった。それはとても満たせるとは思えない条件だった。だから、俺は形だけの主従関係で終わると思っていた。
   それがどうだ。孫司馬と徳謀はこうして服に身を包み、自然に並んでいる。誰が見ても上司と部下だ。
「なんだ、義公?   何かあるのか」
   一つの後ろ姿が不意にこちらを振り返る姿となった。孫司馬だ。俺の視線を感じたんだ。
「いえ、何でもありません」
   俺は素っ気なく答えた。そもそも、長く話せる距離じゃない。俺と孫司馬の間には四、五人の騎馬がいるというのに。

   そう、距離が問題なんだ。

   ここは京師(みやこ)から三百里も離れていないはずだ。別にここまで鮮卑が攻めてきたわけじゃない。敵は俺たちと同じ漢人。すぐ隣にいてもおかしくない漢人。漢人の地のいろんなところで、敵軍によって官府(やくしょ)が攻められ燃やされているらしい。小さないざこざならともかく、誰が、こんな京師に近いところで漢人同士が戦をするなんて想像しただろう。
   こうして戦の場にたちながらも、外から異民族による来た災いじゃなくて、内からの漢人の反乱なんて信じられない。

   だけど、そんな泥沼の中にも一つだけ良いことがあった。交州刺史の朱公偉が一軍の指揮官である「右中郎将」に選ばれたことだ。いや、それだけなら良いことだなんて思わなかったんだろう。だけど、右中郎将の朱公偉は三年前の孫文台の申し出を覚えていたのか、彼はすぐ孫文台を彼自身の配下にむかえた。もちろん、武官としてだ。公偉の補佐役ともいうべき「佐軍司馬」という役職。だから、その知らせが徳謀と俺の元に届くやいなや、俺たちは孫司馬の元へ向かった。もちろん、徳謀が武官として孫司馬に仕えるためだ。もう忘れ去られるだけと思っていた孫司馬の念願も徳謀の悲願も叶えられた。今、自然に受け入れているこのことも、よく考えると不思議なもんだ、こうして孫司馬と徳謀が戦の場にいることは。

   今度は徳謀が後ろを振り返り俺をみる。孫司馬ほどは離れていない。
「義公、おまえがさっき気にしていたのはあれだな?」
   そう言って、徳謀は行く先を指した。俺は目を細め、はるかを見る。そこに砂塵が舞っており、なにかしら、うごめくものが。間違いない、敵勢だ。そういえば、さっき、徳謀が偵察から帰ってきて、孫司馬に何やら報告していたのはこれだったのか。
   おれはこくりとうなづく。もちろん、さっきはそんなの見ているわけじゃなかったが。
「敵です」
   すぐ近くでそう大声を出す男がいた。それは徳謀や俺とは違い、孫司馬の古くからの部下。馬上からさっきの砂塵が舞うところを指している。その声がきっかけかわからないぐらいの時間差で軍の前列で動揺の声が走る。俺の胸もそれに呼応するかのように高鳴る。
   今日、二回目の戦いになりそうだ。一回目の戦いには勝ったとはいえ、いや、だからこそ、「次も生き抜けるのか」などという言葉が強く思い浮かぶ。

「我々は一度、勝利している。今度も勝利で終わらせるぞ。そのまま、前進だ!」
   孫司馬は大声で号令を発した。一人一人が好き勝手に発している声の群がおさまってくる。俺の目に、三年前の孫司馬の姿と現代の孫司馬の姿がうつっている気がした。三年間、俺が見た県吏(やくにん)姿を乱して陽気に酒をあおっている男と、今、堂々と指示を出している男との違いが俺には愉快だった。こんな孫司馬を徳謀は三年前に見抜いていたんだろうか、と俺はその眼力におどろく。あのときの徳謀のことを思い出すと、ただの偶然だなんて思えないでいた。
   俺の目に敵勢がはっきりとうつりはじめた。前回、戦ったときより明らかに多勢だ。そう思うと一気にこみ上げる不安と恐怖、それに孫司馬が指揮する軍勢の中での熱気と興奮があわさり、奇妙に俺は高揚していた。

「軍列を展開!」
   孫司馬の号令で、各自、きびきびと動き始めた。この動作も二回目なので、よどみなく動いている。俺は孫司馬の後に続こうと、騎馬をあやつる。軍の右に騎兵隊がいる配置だ。

   敵勢がどんどん近づく中、ようやく陣形が整ったようだ。今まで孫司馬は軍列の前で全軍を指揮していたようなものだ。だが、ここから孫司馬は百名ほどの騎兵隊を指揮する。全軍の指揮は右中郎将の朱公偉に返される。騎兵隊には俺も徳謀もいる。今まで騎兵隊のは偵察と伝令の役割を持っていたが、ここからは主に敵陣を乱す役割だ。騎馬をあやつりどれほど崩していくか、ここからは俺個人の力量が試される。

   俺の力が役立つ。何年もこのときをどれほど望んでいたことか。

   左の味方の陣から無数の矢が飛び出る。敵勢へと吸い込まれている。いよいよ軍勢と軍勢が接する。味方の兵卒たちが矛を構えている。敵勢が次々とこちらへ走りよっている。孫司馬は依然、俺たちに指示をあたえていない。「待機」だ。
   俺の目に敵勢の姿がうつる。規模は違っても、間違いなく、前回、戦った軍勢と同じ集団だ。不気味にも一人一人、黄色い布をかぶっている。

   やがて、敵と味方が織りなす境界ができあがっているようだった。黄色と兜の色の境界がうねりながら遠くまでのびている。その境界は絶え間なく動いている。だから、騎兵隊がまだ動かずにいたのをもどかしく思う。
   俺は孫司馬を凝視した。俺の視線の先の孫司馬は、せめぎ合う二つの勢力を左へ見つめている。いや、その左側への目つきは見つめているというより眺めているに近い。

   孫司馬の気配が変わる。

「待たせたな!   敵陣をかき乱せ!」
   その言葉を俺が理解する頃には、孫司馬は馬をあやつり前へ出ていた。部下たちが後に続く。俺も馬を走らせる。

   密集の敵勢に孫司馬を先頭に突撃していく。それは、固い土にくさびを打ち込むような感じがした。その勢いで敵の誰かにあたって、前のめりに倒れないかと緊張がはしる。
   勢いを殺さず、ついに孫司馬が敵陣の中へと踏み込む。
   進路を阻むものを孫司馬は容赦なく戟で払う。

   俺も敵陣へと入る。騎兵隊の左にいたので、左の敵だけに専念できる。
   一撃、二撃と左側の敵を払っていく。これだけでもきつく感じるのに、先頭の孫司馬はいったいどれほどの動きをしているのだろうか。おそらく俺たち三人分の力ぐらいは必要だ。そう考えると、不思議と勇気がわく。
   また一撃、二撃と繰り返し、前へ前へ進む。騎兵隊は中へ中へと進む。

   激戦でも忘れてはならないこと。それは遠くも見渡すことだ、と孫司馬から皆は言われていた。敵味方の怒号が飛び交う中、それを思いだし、俺はちらりとちらりとあたりを見回した。
   近くの敵に気を向けながらのことだから、断片的にしかわからない。でも異常なことに気づく。味方の軍は敵の軍より少数ながら、勢いがある。敵を押している。だけど、敵を圧倒している感はない。だだ、人の波をつくっているだけにみえる。
   よくよく思い返してみると、この騎兵隊もそうだ。忙しく戟をふるっていても、攻撃が返ってこない。手応えがない。もしかすると、騎兵隊全体で敵の人混みがなす河を泳いでるだけかもしれない。

   騎兵隊の離れた向こうでは、黄色と兜の色の境界が乱れて溶け合っているようだった。

   孫司馬は右手で戟をあげる。こちらへ振り向かずとも背中で合図をおくっている。
「この戦、負けるぞ!   よく見ろ!   いろんなところで、多数の敵兵が一人の味方をそれぞれ囲んでいるぞ」
   孫司馬は一呼吸をおいた。確かに。味方一人一人を複数の敵が囲んでいると考えると、俺が感じていたのは合点がいく。だけど、味方のあの勢いを持って負けるなんて思えない。
「進路変更だ!   敵と味方の境界に沿って駆けるぞ!   個々で包囲された味方を救え!」
   孫司馬は手綱をあやつり、馬首を返した。皆、それに引き続く。

   次の突撃はゆっくり進んでいた。なにせ、一つ一つの細かい敵の包囲を突き崩しているのだから。
   俺も戟をふるおうと、敵数人の包囲を見つけ駆け近づき、一人を払いのける。その包囲の穴から、命からがら味方の兵卒が飛び出てくる。そして、俺自身が包囲されないよう、すぐ騎兵隊の一団へと駆け戻る。
   まったくなんてことだ。勢いはこちらにあり、整然と敵を倒していたはずだ。それなのに、今や、味方の前線はずたずたで、その勢いは敵の包囲により一人一人に封じられている。俺が幼少のころから見てきた鮮卑とは全く違っている。やつらは騎馬の力でなだれ込むように攻めてくる。ところが、今、戦っている黄色いやつらはそんな力強さがあるどころか、まったく手応えがない。だからといって弱いと思っていたら、あっという間に味方の陣営が分断されてしまった。
   もう指令が下ったのか、味方の軍は退却の体勢に入っている。そういえば、退却の鐘が鳴ったような気がする。

   もう俺の役目は少しでも味方を救うこと、それに限る。

   孫司馬も徳謀も黙々と敵の小さな包囲を崩している。敵勢には騎馬はいない。だから、相手は歩兵となる。騎兵と歩兵。騎兵隊が圧倒的に有利だ。傷つけられることはない。だからこそ、むなしさが俺の中にある。いくら包囲を崩して味方の兵卒を助けても、また近くに包囲ができあがってくる。まるで無数の泡ぶくだ。
   だけど、孫司馬に続き、淡々とことをすすめる。体は元気だが、力が入らないような気がした。

   ふと、俺の目にある味方が包囲されている光景がうつる。ここから少し離れているところなので、駆け寄るのは危険だ。そのまま見捨てようと思ったが、何か様子が違う。
   包囲されているのは二人。そして、一人がその敵兵数人の包囲から走り出し、味方の方へと逃げている。もう一人がかばった結果だ。もう一人の男が続いて走り出す前に、再び、包囲の穴が敵の体でふさがり、閉じこめられている。
   男は味方の兵を助けようと、自分を犠牲にしたんだ。もうこのままでは、男はやられてしまう。だけど、助けなんて、どこからもやってこない。
   そう思うと、俺は騎兵隊の一団から離れ、その男のところへ向かっていた。

   俺、なに、考えてんだろ?   自分の身も危うくなるのに。

   幸い馬の動きが早く、四方八方にいる敵の兵卒たちは各自の包囲に夢中で、こちらに気を向けない。だけど、気を向けられたら最後、騎兵といえども、包囲され、やられてしまう。
   俺はその考えを心の内から振り払い、戟の革帯を肩にかけ、馬上で弓を構える。その間に、敵の包囲の中の男は足を払われたのか、前へ倒れていく。間に合うのだろうか。
   矢を構える。その間に、倒れた男に敵の兵卒はとどめをさそうとしている。間に合わない。
「どけっ」
   俺はとっさに大声を出した。男を囲む敵たちはすぐこちらを向く。よし、男から気がそれたぞ。
   だけど、敵の兵卒たちの気がこちらに向いている。それだけならいいが、どうやら俺のまわりにいる兵卒たちすべてがこちらを向いているようだ。馬をとめたら、囲まれてしまう。
   男の周りの敵勢は退き始めた。どうやら、やつらでも騎馬の強さをしっているようだ。だが、もう遅い。

   俺は矢を放つ。矢は弧を描き、敵の元へ行く。一人にあたり、その場へと倒れる。
   それで怖じ気づいたのか、男の周りには誰もいなくなっていた。俺は武器を戟に持ち替える。
   俺は悠々と男の前に出た。俺は男を馬上から見下ろす。

   男は混乱しているのか、びくっと体をふるわせる。その後、俺の方に顔を向ける。男の命に別状がないことにほっとする。だけど、すぐに俺は現実に目を向ける。
「はやく、立て。味方は退却している。我々も早く逃げるぞ」
   俺は男にそう呼びかけた。男は我に返ったのか、ゆっくりと立ち上がり、右足を引きずりながら、俺がきた方向へと走り出した。俺が派手に通った後だから若干、敵のいない筋ができている。よし、助かりそうだ。
   だけど、その考えは甘かった。敵の反応は早い。俺たちの前に鉄刀を構える兵卒が現れる。
   その兵卒の顔は自信にあふれているようだった。何を勘違いしているのだろうか。自ら所属する大軍を自分の力と思っているのだろうか。騎兵の俺を一人で倒せると思っているのだろうか。
   こういうやつらが何十万人もあつまって、漢人対漢人の戦を仕掛けた。うぬぼれるな。漢人同士で戦っている場合じゃない。漢人全体ではどんどん力が衰えているのに。そう思うと怒りがこみ上げてくる。
   俺は怒りを右腕に込める。馬を前に出し、そして戟を一振りする。敵兵はどさりとその場に倒れる。
   その敵兵が倒れ、道が広がる。味方の軍勢が見える。その風景に気力がでたのか、男は味方の元へ走り出した。よし、その調子だ。生き残れるぞ。

   ようやく、味方の軍勢のところまでたどり着く。すでに退却の動きを見せている。
   この退却がうまくいったとしてもこれからが大変だ。うまく勢いを盛り返さないと、あの軍勢に漢人の地が蹂躙されてしまう。
   ふと眼差しに気づく。その元をたどると、さっき、助けた男が息を切らしながら、こちらに顔を向けていた。さっきは気づかなかったが、男は俺より二つは若い。息を切らしている。呼吸を整えながら、俺に何か話そうとする。
「さっきは助けてくれてありがとうございます。えー、お名前は?」
   男は普通に話しかけてきた。もう元気だというところを俺に見せたいのだろうか。
「俺は韓義公だ。まだ話す暇はない。もっと後方へ逃げるんだ」
   俺はそう言った。まだ気を抜くわけにはいかない。それからこれからもだ。この漢人同士の戦いを終わらせるまでは。
   だが、こんな強い相手に孫司馬の軍は対抗できるのだろうか。
   そのとき、目の前の男が笑みをうかべ、うなづいていた。あぁ、後方へ逃げることを了解したのか。あれだけひどい目にあってまだ笑顔をつくれる、こんな若者がいたらまだ望みはあるのかもしれない。

   男は味方の軍勢の奥へ奥へ走り出す。
   俺は馬を操りながらも、男の頼もしさに目を細め、やがて閉じていた。