目をとじれば   一五歳
176-
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   不意のまぶしさに俺は目を閉じていた。
   手のひらをかざした後、ゆっくりと目を開けた。まさか、ここで中庭が現れるなんて思ってもなかった。
「義公、こっちだ」
   左から程徳謀の声がした。俺が振り向くと、中庭に面した廊下から徳謀がこちらを振り返っている。
「はい!」
   俺はあわてて答え、早足に廊下を急いだ。徳謀はもう向き直り再び、歩き出していた。俺の目には徳謀の力強い背中が見えている。

「ここだな」
   俺の耳がようやくとらえられるぐらいの声で、徳謀はつぶやいた。俺は徳謀の後ろにぴたりとつく。部屋の入り口前だ。
「お久しぶりです。幽州の官吏、程徳謀です」
   俺の耳を突き抜けたかと思うほどの声で、徳謀は呼びかけた。徳謀の肩越しから、俺は呼びかけられた相手を探す。それが中山郡の臧太守であることは徳謀から聞いていたが、どんな人物なのか早く直に見てみたいと思っていた。
「入れ」
   こころなし細いが、よく通る声が奥から聞こえてきた。徳謀は躊躇せず、すっと前に出る。俺は出遅れ、後を追う。進む先に中年の男が榻に座っている。待っていたんだ、と俺は感じる。
   中年の男は目の前の牀を指し示す。徳謀は一礼し、そこへ座ろうとする。俺も出遅れて一礼し、そこへ座る。
「このたびはこのような機会を与えてくださって光栄です」
   俺が座った直後に徳謀は穏やかに声を出した。太守はふっと微笑む。
「おまえがこの近くに来るときいて、懐かしくなってな……つい呼び出してしまったんだ」
   太守は親しげな目で話した。その様子に俺は違和感を感じる。想像していた人物とずいぶん違うからだ。
   太守は不意に俺の方を見る。
「ところで程徳謀……この御人は?」
   俺のことを徳謀に訊く太守。三年前は雲の上の存在と思っていた人物が俺に話しかけている。全身に緊張がはしる。
「私客です。同席するようにいったのは私です」
   徳謀のその言葉には俺への気遣いがあった。太守はいやな顔せずうなづく。

   三年前、俺は父ちゃんどころか母ちゃんも鮮卑に殺された。
   場所は違ってもその時期、臧太守は西方で鮮卑の軍と戦っていた。結果は敗戦となってしまったけど、それまで鮮卑の脅威にさらされていた俺たちの希望だった。

「初めまして。程徳謀の部下、韓義公と申します」
   黙っていて印象を悪くしたくなかった俺はあわてて名乗った。だけど、それ以上の言葉が思いつかない。緊張してる。太守は俺の顔をのぞき込むように見ている。
「おまえ、何歳だ?」
   太守の不意の質問。歳を訊かれて俺の内側からいつもの不快な気持ちが出そうになるが、何とか押さえ込み、代わりに声を出そうとする。
「一五歳です」
   俺はぎこちなく言った。太守は微笑む。
「やっぱりそうか!   大人びた顔立ちだが、一五歳だと思った。おまえを見て息子のことを思い出した」
   太守は懐かしいと言いたげな、優しい目を向けていた。
「一五歳の息子さんがおられるのですか?   それは奇遇ですね」
   徳謀は合いの手を入れた。太守は徳謀の方にもちらりと面を向ける
「いや、一五歳だったのは六年前だが、息子にとって記念すべき歳だった……あー、息子は今、子源という字(あざな)だが、当時は加冠してなくて、字(あざな)がなかったんだが……ちょうど、子源が試経にうかって、童子郎に就いた歳だからな……親ばかなんて言われるかもしれないが、忘れられないことなんだ」
   途中で太守はおのれの言動のおかしさを恥じたようなそぶりを見せていた。俺は太守に気まずさを感じて欲しくなかったので、言葉を急いで探す。「童子郎」とは童子(こども)の官吏(やくにん)ということは俺でもわかる。但し、経書の試験があって、誰でもなれるわけじゃない。俺どころか、俺の知っている同世代でそんな職に就けたやつなんて見たことも聞いたこともない。
「太守の息子さんと俺とでは違いすぎます。俺なんか足下にも及びません」
   俺は恐縮しまくって言葉をつむいでいた。
「そんなことはない。息子は文官の能力に秀でていたが、おまえは……そう、武官の能力に秀でている感じがするな」
   太守は顎に右手を持っていき、俺をじろじろと見て、何回も頷いていた。
「その通りです、この義公はその武芸で私を鮮卑の賊から守ったこともありました……特に騎射に秀でています」
   そう言って、徳謀は俺の肩をぽんとたたいた。俺は照れから首筋から顔にかけて熱くなるの感じ、照れ隠しに面を下げる。もう徳謀と出会ってから一年は経つかなと俺は思い浮かべていた。
「やはりな。文と武の違いはあれど、その歳で何かに秀でている者は、精悍な顔をしているものだ」
   太守は目元をゆるめて俺を見ていた。

   雲の上の存在だと思っていた人が目の前にいる。そして、俺のことなんかを話題に取り立てている。しかも自らの優秀なご子息と俺とを引き合いにだすなんて。舞い上がりすぎて俺は何が何だかわからなくなっている。

「太守どの…」
   その険しい声に俺ははっとなった。声の主は徳謀だ。
「なんだか、私には太守どのの人がお変わりになったような気がします。以前の私が思っている太守どのはそのようなことを思っていても決して口にするような方ではありませんでした」
   徳謀のその声から、何を意図してそう口にしているのか俺には読みとれないでいた。

   太守はうつむき、ふっと息をする。
「そうかもしれない……徳謀、人は変わるものだ。特に狂おしくなるほど心に苦痛を負った場合な」
   太守の言葉も深刻なものとなった。しかし、表情はにこやかなままだ。それが返って何か怖いものに俺は感じていた。意味深な言葉、俺は何のことかはかりかねている。
   徳謀は痛いほどまっすぐな眼差しを太守に向けている。
「私があなたと最後に会ったのは三年前……侵攻してきた鮮卑の軍を追い返してやろうとあなたは気迫に満ちあふれていた。ところが今のあなたはあのころのあなたとは明らかに違います、失礼かもしれないですが。あの後、鮮卑の軍との戦いで何があったか私は見ていません。だけど、話には聞いています……完膚無きまでの敗戦のことを…」
   徳謀は急に言葉を繰り出すのをやめた。太守が徳謀の声を止めたいかのように、手のひらを前に掲げているからだ。
「徳謀、おまえがあのとき、武官だったら、今の心情、あのときの心情、すべてを吐露したかもしれない。それに、今のおまえは武官のことはわからないだろう。ここにはこの老いぼれしかいない。他にめぼしい人物はいない。だから、おまえの求める者はここにはない」
   太守のにこやかな目が鋭いものに変わっていた。それは怖いものではなくどこかしらおおらかさを感じさせるものだった。
「わ、私が誰をここに求めているというのですか?」
   徳謀らしくない、ややうろたえた声を上げていた。まるで太守の鋭い視線に徳謀が射抜かれたようだった。
   太守は少し不気味な笑みを浮かべる。
「三年前、幽州の連絡役だったおまえと会ったときから思っていたんだが、おまえの内からちらりちらりと見える気迫は文官のそれではなかった。今じゃその気迫は前面に出ているようだ。そういうことに鈍感なやつでもわかるんじゃないか?   おまえは気迫は武官のそれだってことは」
   太守は言い終えるとにやりとした。徳謀が武官、そう言われてみれば、他の文官とどこか違っていたという感覚が俺の内でよみがえる。
   徳謀はゆっくりと口を開く。
「それだけ私のことをわかっていらっしゃるのでしたら、私がここに何を求めていることもご存じなのでしょう…」
   淡々と徳謀は語っていた。その様子は俺の目には徳謀が自らを落ち着かせようとしている現れのようにみえた。それにしても二人が何を意図して話しているのか、見えてこない。
「いったはずだ。ここにおまえの気迫を満たしてやるような者はいない。そのままここで武官となっても待っているのは文官の仕事とかわらないぞ」
   太守はまゆをひそめた。徳謀は武官になりたがっているのか、と俺は話の糸口をさぐる。
「じゃ、私はこのまま帰るしかないと?   このまま戻って、また後衛を暖めるのはごめんです」
   徳謀の声に熱が帯び始めていた。俺は、徳謀の秘めたるものを目の当たりにした気分だった。確かに、俺の知らない徳謀がそこにいた。
「あわてるな。共に戦えない老いぼれといっても、指でさししめすことはできる。せめてそれだけはさせてくれ」
   太守のかすかな笑みはこの状況をまるで楽しんでいるようだった。俺には話の内容を相変わらずつかめずにいたが、俺が聞くようなことでないというのはすぐに勘づいていた。俺がこの場にいるなんておそれ多い。そう思うと、勝手に口が動く。
「話の途中ですみません……俺、これ以上、ここにいると迷惑だろうし、外で待っています」
   そういって、俺は牀から立ち上がろうとした。ところが徳謀に横から腕を捕まれ、それを遮られる。
「待て、これは義公、君の将来にも関わることだ」
   俺が捕まれた部分に目を移すと、まともに徳謀のまっすぐな眼差しを見てしまった。怖じ気づく気持ちを振り払う。
「正直、俺は先ほどまでの会話をまったく理解できませんでした。お、俺がこの場にいるだけで、雰囲気を悪くするようで」
   俺は徳謀の手をふりほどこうとしていた。
「程徳謀の言うとおりだ…それにおまえがわかるまでこの会話を続けても構わない。おまえのような童子(こども)をこの場に連れてきているということは、それだけ程徳謀からおまえは期待されているからだ」
   徳謀どころか太守までも俺にまっすぐな眼差しを向けていた。俺の顔はまじめくさった顔になってしまう。そして、意を決し、また、その場に座り込んだ。
「わかりました…」
   俺は力無く答えた。
「おまえの運命は今、程徳謀が握っている。だけど、これから先、程徳謀の運命をおまえは左右するかもしれん……今から、いくつか、徳謀の望むべきことを満たせる者たちをあげていく。その者たちの誰かが徳謀の主人になるかもしれないし、誰一人として居ないかもしれない…」
   太守ははきはきと話し始めていた。

   俺の将来を握る会合は始まっている。だけど、それが何か、見当がつかないでいる。俺は未知へのおそれから知らずに目を閉じていた。だけど、それは覚悟してのこと。再び、目を開けるときには、こんな弱い俺はいない、そういう自信をなぜだか俺は持っていた。