目をとじれば   一四歳
176-
<<小説本編の入り口へ戻る
<<目次
<<一二歳


   砂塵が入ったのか、目を開けられずにいた。
   目をこすり、何とか開ける。
   ここまできたのだから見失いたくない。
   俺の読みは正しいはずだ、と声にならないけど、自分に言い聞かせている。

   俺の目に映るのは、一人の男。馬に乗っている。馬首を西へと向けている。
   俺が気にしているのはそれだけじゃない。その男から遠く離れたところにも、見落としがないよう、気をつけている。
   そうすると、視界の右にわずかに動くものが。俺はあわてて目でそれを追う。
   一人の男からみて風下の方角だ。幸い、俺のところからは風下というわけじゃなさそうだ。多分、俺がいるってことは気付かれていない。

   目を付けた、一人の男は州の官吏(やくにん)。
   そして、それを風下から襲おうとしているのは鮮卑の兵卒。噂によると、その人数はたった二人で、密偵に来たとも、度胸試しだとも言われている。ただ、確かなことは商旅や県吏たちが何日かに一度、そのたった二人に襲われ掠奪されているってことだ。
   馬に乗っているとは思えない静けさで、鮮卑の兵卒たちは一人の男に近づいている。
   その人数は、一人、二人……三人だ。それは、俺の思っていた人数とは違う。だけど、その違いは大きくない。もうやるしかない。そう心に決める。

   馬上の一人の男は身の危険に勘づいた。
   俺がはらはらするぐらいゆっくりと後へ振り返っている。すぐに男は手綱さばきで馬を駆けさせる。もちろん、全速力だ。
   それに合わせて、鮮卑の兵卒三人も馬を走らせる。
   予定通りだ!   俺はそう心の中で叫び、体の下でじっとしている馬を駆けさせた。

   俺のことはまだ気付かれていない。男からも鮮卑からも。
   お互いのことに気を取られている。
   男は馬首を左右に巡らせ、追っ手三人の軌跡がまとまらないようにそらしていた。だけど、気付いたら、男の馬はまっすぐに駆けるようになっていた。追っ手の三人がたくみに男を追い込んでいるからだ。
   おれはその様子を冷静に見つめる。逃げる州吏、追う鮮卑卒三人、そんな張りつめた様子なのに、愉快な気分になっていた。大の男三人が俺の手のひらにあるような気がしたからだ。追っ手の三人は男を追いつめたように思い、勝ち誇っているだろうけど、それ自体、俺の手中にある。これが愉快な気分で居られない方がおかしい。

   俺は両足に力を入れ、馬から振り落とされないようにする。
   そして、弓を手に取り、矢を真ん中に向け、弦を引く。矢の先に真ん中の鮮卑卒がいる。
   何度も練習したが緊張する。だけど、余計な心配や不安はない。
   いける、俺、集中してる!

   右手から放たれる。本当に放つだけ、変な力が掛かって矢の軌跡を妨げていない。
   矢は山なりに跳び、目標物に吸い込まれるように向かっている。

   真ん中にいる追っ手の背中肩口に当たり、何かの物のようにどさりと馬から落ちる。
   あんなに怖かった鮮卑が、今はただの邪魔者にみえるだけだ。今は邪魔者を追い払い、あの男に見知って貰うだけ。
   おれが二発目を放とうとしたとき、残りの追っ手二人は左右に分かれていた。俺の注意をそらすためだ。迷わず俺は左に矢を向け、放つ。
   だけど、矢はようやく追っ手の体に触れる程度だ。

   左と右の後へ遠ざかる鮮卑卒を尻目に、馬首を返さずに、俺は追われていた男の馬へ横付けする。
「右回りで!」
   俺の一言で、男は無言で、手綱をたぐり大きく右へまわっていた。
   俺もそれに合わせ、右からまわる。そうしながらも、敵の襲来に備え、目で、敵の位置を確かようとする。だか、俺の目には敵の後ろ姿しか見えないでいた。

   敵はあっけなく退散したようだ。

   そう思うと、全身の力がすっと抜ける心地がした。次に来るのは体の震えだろう、と思って、俺は大きく息を吸い、それからゆっくり吐く。
   もしかするとこれからが本番かも。どうこの男……いや官吏に話しかければ良いんだろうか。

「どこの誰かは存じませんが、いや助かりました」
   不意に官吏は俺に話しかけてきた。その弾みで俺は用意してきたいろんな言葉を全部、忘れてしまう。
「あの…その」
   口ではまともに返事できず、官吏の方に顔を向けるだけで精一杯だった。官吏は馬上から俺の顔をまじまじと見る。反対に官吏の引き締まった顔がこちらから見える。
「あ……まだ小男(こども)?…」
   官吏は喉に何かを詰まらせたような言いようだった。俺を小男だと見くびられてはこれから先、何を仕掛けてもうまくいかないような気がして、あせる。
「俺はちゃんと加冠している。だから『義公』という字(あざな)もあるんだ。小男なんかじゃない!」
   俺の目は官吏をとらえていた。官吏は右の口の端をあげる。
「それは失礼…あなたがとても若く見えたものですから……ところで何歳なのでしょうか?」
「十四だ!」
   官吏の煮え切らない態度に、俺は思わず歳を答えた。
   本当の歳を知って、官吏が俺を見下した態度をとるのだろうと覚悟した。
   だけど、官吏は何もせず、じっと何か考え事をしているようだった。

   その変な間の後、官吏はようやく口を開く。
「申し遅れたが、私は程徳謀と言う者だ。州の官吏…いわゆる州吏をやっている。たまたま、この地を通っただけで、さっきの鮮卑のやつらが襲ってくるなんて身に覚えがない」   その言葉で、男が確かに州の官吏だとわかった。それはまさしく俺の狙い通りだった。
   そんなことより、さっき声を荒げた俺のことを、程徳謀と名乗った男がどう思っているのか気になって仕方がない。だけど、それをすぐに訊くわけにいかない。
「あの鮮卑卒は他のとは違い…ます。無差別に襲っているようですから…」
   本当に訊きたいことを考えから押しのけ、俺は徳謀の言うことにあわせていた。
   徳望はまた右の口の端をあげる。
「なるほど、今までの鮮卑卒とは違うのか。一官吏なんて相手にしなかったのだが……鮮卑の中でも新たな流れが生まれているのだろうか…」
   俺は、不意に名案を思いついた。徳謀に取り入る案だ。
「そ、そうです!   だから、この辺りでも今は一人だけで移動なんて危険です!…」
   自分の声がかなり力んでいることに気付いていたけど、なりふり構わないという気持ちに俺はなっていた。
   急に俺の目に開いた手がうつった。徳謀の手だ。俺は言葉を詰まらせる。
   その手の向こうに徳謀の鋭い目つきがあった。

「よし、着いてきていいぞ。おまえを喰わせるぐらいの財はあるからな」
   徳謀はぶっきらぼうに言った。
   あまりにも脈絡のない発言に俺の理解が追いつかないでいる。そんなぽかんとした俺の様子を徳謀は見て取っているようだ。徳謀は口を開く。
「もう下手な駆け引きはしなくて良いぞ。私は身よりのない小男に何度も会っている。私が望まなくても、向こうから物乞いしたり、着いてきたり……まるで『ここで救わないとおまえは悪人だ』と言わんばかりに。しかし、君は違う。作為的なのかどうかは知らないが、私に一番わかりやすい形で、その実力をみせた……いや、君は小男じゃなかったな。とにかく、私は君を私客として雇いたい。わかったか?」
   徳謀ははきはきと話した。だけど、俺は一度にその言葉を飲み込めないでいる。その言葉を心で反芻する。これって、一番、嬉しいことじゃないのか?

   今度は俺が変な間をあけてしまう。それに気付いてあわてて声を出す。
「じゃ、俺の魂胆をわかっていたのですか?」
   声だけじゃなく言っていることも間抜けだな、と俺は自覚していた。
   徳謀は深々とうなずく。

   俺は深く息を吸い込み、落ち着いて話そうとする。用意していた言葉を思い浮かべながら。
「俺の姓は『韓』、名は『當』。字(あざな)は『義公』といいます。どうか俺を雇って下さい。今は大した腕前じゃないんですが、俺、絶対、強くなってみせます!   どんなやつが来ても守ってみせます」
   この言葉はいつか誰かに言ってやろうと一年以上も暖めてきたことだ。まだ言葉が過ぎるぐらいだけど、俺の決意は本物だ。もう、身近な人が殺されるなんて、まっぴらだ。
「私の心は変わらぬ。もちろん、君を私客として雇う」
   徳謀は優しい笑顔をみせた。

   これが俺の力とは思えない。だけど、いつか胸をはれるときがくる。
   俺は目を閉じた、力を与えてくれた両親に感謝するために。