裴松之の史学観(早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊 第42輯 1997年2月28日)

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 2023年7月29日土曜日昼過ぎ、前の記事に続いて国立国会図書館に居た。

・東京本館|国立国会図書館―National Diet Library
http://www.ndl.go.jp/jp/tokyo/

 下記関連記事で触れた論文の注にある宮岸雄介「裴松之の呉興亡論」(アジアの文化と思想の会『論叢アジアの文化と思想六』1997年)が気になって、国会図書館で複写しにきたのだけど、すでにデジタル化されており、プリントアウトすれば良いやと思っていたら、他の論文の複写に気を取られすっかり忘れていたというオチ。

※関連記事 リンク:鍾山改名の由来について(藝文研究第85号 2003年12月)

※新規関連記事 リンク:裴松之の呉興亡論(論叢アジアの文化と思想 第6号 1997年12月30日刊行)

・文学研究科紀要 – 早稲田大学 大学院文学研究科
https://www.waseda.jp/flas/glas/research/bulletin/

※新規関連記事 魏晋の史学思想(富士大学紀要 第31巻第1号 1998年7月10日発行)

 その他の論文はしっかり閲覧・複写をしており、まず『早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第1分冊』第42輯早稲田大学大学院文学研究科(1997年2月28日発行印刷)pp.51-63の宮岸雄介「裴松之の史学観」。一応、目次を。

51 序
53 一、
57 二、
61 結び、
62 注


 劉宋時代の裴松之はご存知、現行の『三国志』に必ずと言っていいほどついてくる注を入れた人なんだけど、だからといってその「史学観」は三国関連とは限らないと思っていたけど、この論文では『三国志注』、つまり『三国志』の注が中心となるので、その心配は要らなかった。「序」では「史注」が「言葉に関する注釈」と「事柄に関する注釈」の2つに分類されるとし、『三国志注』は後者に当たると。中国では前者を重んじるのが根強く、そのため『三国志注』について唐代の劉知幾は『史通』補注篇にて(論文p.51より)「才能のない史家が優れた人物の驥尾について自分の名声を高めようと、多くの史書から異聞を集めたものに過ぎない」としている。
 「一、」の冒頭ではそういった唐の劉知幾が劉宋の裴松之を批判していることを書き、そもそも劉宋、つまり六朝期の史学観が唐代とは違っていた旨を示す。逆に劉宋の裴松之が批判するのは晋の孫盛、『晋陽秋』であり、それは例えば『魏氏春秋』に「わざわざ『左氏伝』の文章を用いて、もともとの記録の文章を変えてしまう」という潤色があると。梁代の劉勰の『文心雕龍』だとそんな『春秋』模倣を積極的に評価される。その後、いろんな例をとりあげ、「実録を重んじる裴松之の史学観」を浮き彫りにしている。
 「二、」では「後世への勧戒を目的とする中国の史学は、実録よりも教訓的な意義が重んじられる傾向」の中、裴松之の人物評について論じられる。まず『三国志』巻十魏書荀彧荀攸賈詡伝と荀彧と賈詡が同じ巻に立伝されるのを裴松之が批判することから。次が『三国志』巻五十九呉書呉主五子伝の注で「歩隲という人物にもこうした悪い面があるなら、そのほかのよい面は評価してあげる必要はない。呂岱、全琮たちは論ずるにも足りない」とあり、「悪い人物は悪い人物の典型例として」書くべきと裴松之考えていると。つまりp.59「例えば前章で取り上げた孫盛は事実を脚色してこの意義を全うしようとしていた。それに対して裴松之は、自分が信憑性があると判断した先行する史料から、勧戒となるべき事実を伝える記事をいかに取捨センタ奥するかという立場に立っていたのである」と。その後5例をあげてp.61「裴松之は、時に孔子が唱える長幼の序より人の生命を尊重した。また、無意味な殺戮や戦争には批判的であった」ことを示す。
「結び、」で印象に残ったのは『三国志』巻五十四呉書周瑜魯肅呂蒙伝注でのp.61「各国の史官は、自国を賛美するために自国の英雄をよく書く。陳寿はそれをそのまま鵜呑みにして書いたため矛盾が生じた、と裴松之は陳寿の失敗を指摘する」という文。

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