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こんにちは。
うーん、しかし魏の明帝が駱駝像を移したと書いているのは魚豢の『魏略』なんですよね。この魚豢というのは魏の明帝と同時期の人なのでそう簡単に間違えるとも思えない。一方『洛陽記』の陸機も離れた時期の人ではないし…。
1.『洛陽記』の間違い。漢代、洛陽に駱駝像はなかった。だから銅駝街という呼び名もない。
2.『魏略』の間違い。駱駝像はもともと洛陽にあった。長安の駱駝像は移されなかったか、もともとなかった。
3.どちらも正しい。漢代すでに洛陽に駱駝像があり、さらに長安から駱駝像が移された。
さて、どちらでしょう?
検索してみると「八王の乱と禁衛の軍権」という中国の論文が見つかりました。これの注5に、「夏鼐先生は『河南志』中の古代洛陽図に基づいて云々(略)。『永楽大典』巻9561に引用する古代洛陽図14幅および『考古学報』1959年第2期を参照されたし」「王仲殊先生の『漢代考古学概説』(中華書局:1984年)の18ページ目「東漢洛陽城平面示意図」は云々(略)。」「荘春波先生は云々(略)。氏の著作『秦漢武庫制度』および『史学月刊』1991年第6期に見える」とあります。中国の専門誌なので実際手に入れるのは難しそうです。
http://www.xiangyata.net/data/articles/a01/327.html
『魏志』文帝紀の黄初元年十二月に「洛陽に宮殿を創建した」とあり、集解でもいろいろ書いてあるんですが、分量が多いので省略します。南北間は七里、南側には何々殿、北側には何々殿があったといったことが書かれてますね。
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