|
>【 最後に 】
>
>袁術にせよ孫堅にせよ、劉表を攻めた事に対してのはっきりした大義名分が分からなかったので、当時の動向を踏まえ、袁術の命に従った孫堅の動機を推測してみました。
>
>今までの内容で、まちがっている箇所・あきらかに勘違いしている箇所等があればご指摘頂ければ幸いです。
>
当時の状況を色々推測して自分なりの姿を描き出すのは楽しいことです。またそれが出来るのが三国志の面白さでしょう。
一応当時の状況を述べますと、反董卓軍が組織されたとは言え、内実は呉越同舟で、それぞれが、それを利用して覇権を握ろうと言う意図があります。集まった人々の中で、曹操・袁術・袁紹・劉表らは、過去に後漢王朝の中央官界に身を置いた人々です。かれらは後漢が崩壊に向かっていることは当然知っています。劉表などは、中央の混乱を避けて荊州に自ら出たひとです。因って、最初の義挙が上手く行かないと、彼等はそれぞれ自己の支配権が及ぶ州に依拠して自己勢力の安定と拡大に務めます。幽州や青州・荊州などです。この後、河北では袁紹と曹操が二大勢力となって色々争いますが、江南では劉表と袁術が対立します。袁術は袁紹とも仲違いを起こします。
当時主立った人は大概州刺史の地位を持っております。刺史であれば、その州を中心にして自己勢力の養成が可能になります。曹操が偉くなっても刺史職を手放さなかったり、劉備が後生大事に豫州刺史を持っていたのは、その州に関する限り、行政・軍事などの権限を自由に使えるからです。しかも後漢王朝から与えられた地位です。
その様な中で孫堅が帯びていたのは長沙郡太守の地位に過ぎません。袁術から将軍号を与えられますが、これは単なる便宜的な雜号将軍で、王朝から認定されたものではありません。つまり孫氏は自分の実力で地盤を確保する必要が有るのです。そのため孫策の江南平定と言う軍事行動が出てくるのです。孫權が揚州刺史を配するのは、遙か後のことです。
かような状況の中に在って、自己の生き残りと覇権を確保しようとした孫堅にとって、己の腹の内は別として、袁術の命を奇貨として劉表討伐に向かったのだろうと、愚考致します。
ただし、これも一つの推測に過ぎません。
|
|