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陳さま。それから皆様。はじめまして。
こちらのバナーなどちまちま弄っているばかりで、掲示板自体には顔を出したこともない荊と申します;
私は、妄想力(!)に任せて、『三国志』という世界を楽しませていただいてるだけのド素人ですが、丁度拙サイトで党錮の禁のネタを振る機会があって、いくつか豪族に関係する論文も読ませていただいてたので、浅識ながらも後漢(とくに末期)の豪族について、いち三国志ファンとしての個人的な理解を書き連ねさせていただきますね。
いくつかの文献を参照したとは申しましても、大いに私見(というか妄想;)を交えていますのでそのつもりで軽く読んでいただけたら幸いです。
この時代の豪族とは『その郷里において宗家(一族の中心となる家柄)を中心に、その眷属、彼らの持つ部曲(豪族の私有民・時に私兵を指すこともあるようですね)、また食客などで形成される大きな宗族で、それぞれの地域で絶大な力を持つ者』とここでは定義させてください。
ちょっとここで、豪族の話から不思議な飛躍をして、先に漢朝の衰微に目を向けさせていただきます。
もともと、漢代の官吏登用制度は『郷挙里選』という「地域からすばらしいと評判の人を推薦しちゃうぞ」的なもので、そのような『選ばれた者』たちが皇帝のもと、秩序正しく国家を形成するという理想を以って運営されていました。
ところが、そう事がうまく運ぶわけもなく、次第に『有力者のコネがある人』もっと平たくいえば『袖の下を渡せる人』が官界を闊歩するようになります。
「何処何処の某は非常に素晴らしい人材だ」という地域での評判(郷論)により推挙されるべき人だけではなく、ちょっと汚い手で官吏になった人たちをも官僚として国を動かすのですから、政府が衰微してしまうのも無理からぬ事。それに加え、宦官が皇帝の庇護を傘に政治中枢を操作するという、追い討ちまでかけられた漢朝は虫の息となります。
とは言え、すべての官吏が腐りきっていたわけではもちろんありません。この(特に宦官外戚による)腐敗政治に正面切って対抗した勢力がありました。腐敗政治を撲滅して、秩序正しい儒教的理想社会に戻そうという一派です。ご周知の通り、党錮の禁は彼らが宦官に正面切って喧嘩を売って、逆にコテンパンにやられちゃった事件です(ちと…いやかなり違いますが・笑)が、これによりまともな官僚の殆どがいなくなった漢朝は、滅びるのを待つばかりになってしまいます。
…前置き長すぎですね;
上述の過程においてまっとうな士大夫のうち党錮の受難を免れた人々を含め、有能な人材の漢朝からの乖離が起こります。
地方へ離散していった官僚の中でも、もともと豪族としてのバックボーンを持つ者たちはその強大な力を以って『自分の』土地で力を蓄えていき、また「未だ政府(=ここでは宦官)に追われる」身の者達は地方に潜んだり、力のある豪族のブレーンとしてその宗族団に組み込まれていったりします。
宦官外戚の専横状態の政府と、地方で力を蓄えつつある豪族。この二つを「対立」という構造でとらえるならば、豪族の持つ部曲は私兵という色彩を強く持ち、豪族は軍閥と同義に語りうると考えられます。そして、この軍閥同士の淘汰が、最終的に三国鼎立の形を形成していく…
つまり「後漢は党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」という世界史での記述は、陳さまが頭に思い描かれている群雄の台頭と(群雄の定義は寡聞にして私もよく分かりませんが)絵面的にはなんら変わりないと、愚考いたします。
*絵面なんて言ってる時点で理論よりもイメージ優先なヘボ絵描きの世界観丸出しなんですが;
蛇足ですが、先に申しました漢代の官吏登用制度である『郷挙里選』は、魏朝にいたって陳羣の建議による『九品中正法』に変わりますが、この制度こそ門閥(決まった家柄の者が政治権力を独占する)政治の形成に特に寄与し、中国中世における「上品に寒門なく下品に勢族なし」と言われる特定『貴族』による政治を許すことになるといわれていますので、この『貴族』のルーツを地方の名望家→豪族に求め
るとするならば、「後漢は党錮の禁以降は豪族の台頭によって力を弱めた」という記述は結構意味深に感じられますね。
以上、推敲苦手なため初投稿にして要領を得ない長文になってしまい、申しわけありません。
ところで、参照した文献はこのようなweb掲示板上でも、通常の論文を書くときにいたします〔参考文献の記述の仕方〕に則って書き込んでもいいものなのでしょうか。よく分からなかったため、とりあえずは参考文献を記さずに書き込みさせていただきました;
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