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【2630】夏候淵@定軍山、その後。 輪っか 2006/12/22(金) 6:57 教えて
┣ 【2631】Re:夏候淵@定軍山、その後。 将軍様 2006/12/23(土) 21:10
┗ 【2648】Re:夏候淵@定軍山、その後。 清岡美津夫 2007/1/3(水) 19:40
┣ 【2675】Re:夏候淵@定軍山、その後。 輪っか 2007/1/6(土) 14:58
┃┗ 【2693】Re:夏候淵@定軍山、その後。 池田雅典 2007/1/10(水) 18:38
┃┗ 【2694】Re:夏候淵@定軍山、その後。 輪っか 2007/1/12(金) 2:31
┣ 【2876】Re:夏候淵@定軍山、その後。 如墨委面 2007/8/7(火) 23:21
┗ 【3195】魏武軍策令 清岡美津夫 2008/9/7(日) 18:24 追記
┗ 【3204】Re:魏武軍策令 池田雅典 2008/9/10(水) 19:32
┗ 【3206】Re:魏武軍策令 清岡美津夫 2008/9/10(水) 19:57 感謝♪

【2630】夏候淵@定軍山、その後。
教えて  輪っか  - 2006/12/22(金) 6:57 -

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   夏候淵が定軍山で黄忠に破れ、戦死したエピソードは有名ですが、具体的にどんな死だったのか、非常に興味が湧きました。
…が、ただ「黄忠に斬られた」とあるだけで、詳しい記述はないですよね。

そこで、

1.どんな状況で負けたのか、(正々堂々と戦って負けた、乱戦の中落命した、奇襲を受けた、など)
2.「斬られた」というのは比喩であり、「黄忠部隊の誰かが致命傷を負わせた」のか、それとも言葉通り、「黄忠と対峙、斬り合って負けた」のか
3.戦死後、その亡骸はどうなったのか(首級を蜀に持ち去られたのか、魏で埋葬することができたのか、など)

このあたり、皆さんのご意見を伺えたらと思います。


自分的には、乱戦の中の落命で、亡骸は部下たちが命懸けで連れ帰った……というのが一番カッコイイなーとは思うのですが。

【2631】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 将軍様 WEB  - 2006/12/23(土) 21:10 -

引用なし
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   こんばんは

状況は、兵士を分散して、分散して、分散して 最後に襲撃されて負けてしまった
護衛が少なくなたために逃げれなかったんでしょうねきっと
きっと兵士によって倒されてのでしょう、渡り合って敗北したなら一騎打ちで破れたとか何か明記されているんじゃないかなと
相手が雑兵よりも、名のある武将のほうが夏侯淵も救われると思うので
亡骸については わかりません、私には…

【2648】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2007/1/3(水) 19:40 -

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   どうもこんにちわ。
とりあえずお約束のツッコミで申し訳ないのですが、「夏候淵」ではなく「夏侯淵」ですよ。ネットによく見かける間違いなのですが…
3の亡骸についてはどうかわからないんですが、1と2だったら、三国志でいくつか別の表現で記載があるので、それらをつきあわせると推論や想像の手助けになると思います。
ざっと見たところ、夏侯淵が殺される記載は三国志魏書武帝紀、三国志魏書夏侯淵伝、三国志魏書張[合β]伝、三国志蜀書先主伝、三国志蜀書黄忠伝の五カ所にありました。以下に抜粋しておきます。一応、素人丸出しで申し訳ないですが、私の訳もつけておきました。


三國志卷一 魏書一 武帝紀第一

(建安二十四年春正月)夏侯淵與劉備戰於陽平、為備所殺。

<清岡による訳>夏侯淵は劉備と陽平で戦い、劉備に殺された


三國志卷九 魏書九 諸夏侯曹傳第九

(建安)二十四年正月、備夜燒圍鹿角。淵使張[合β]護東圍、自將輕兵護南圍。備挑[合β]戰、[合β]軍不利。淵分所將兵半助[合β]、為備所襲、淵遂戰死。

<清岡による訳>二十四年一月、劉備は夜、鹿角を焼き囲み、夏侯淵は張[合β]に東囲を守らせ、自らは軽兵を率い、南囲を守った。劉備は張[合β]に戦いを挑み、張[合β]は敗れた。夏侯淵は兵を半分に分け張[合β]を助けると、劉備に襲われ、夏侯淵はついに戦死した。


三國志卷十七 魏書十七 張樂于張徐傳第十七

劉備屯陽平、[合β]屯廣石。備以精卒萬餘、分為十部、夜急攻[合β]。[合β]率親兵搏戰、備不能克。其後備於走馬谷燒都圍、淵救火、從他道與備相遇、交戰、短兵接刃。淵遂沒、[合β]還陽平。

<清岡による訳>劉備は陽平に駐屯し、張[合β]は広石に駐屯した。劉備は精兵一万余りを分け十の部に編成し夜に張[合β]を急襲した。張[合β]は近衛兵を率い接戦したが、劉備に勝つことができなかった。その後、劉備は走馬谷で都囲を焼き、夏侯淵は消火にあたり、別の道からせめて、劉備に遭遇し、交戦し、短い武器で刃を交えた。夏侯淵はついに没し、張[合β]は陽平に帰還した。


三國志卷三十二 蜀書二 先主傳第二

(建安二十四年春)先主命黄忠乘高鼓譟攻之、大破淵軍、斬淵及曹公所署益州刺史趙[禺頁]等。

<清岡による訳>先主(劉備)は黄忠が高所から鼓をかきならしこれを攻めることを命じ、夏侯淵の軍は大いに敗れ、夏侯淵と曹公により着任させられた益州刺史の趙[禺頁]たちを斬った。

三國志卷三十六 蜀書六 關張馬黄趙傳第六

建安二十四年、於漢中定軍山撃夏侯淵。淵衆甚精、忠推鋒必進、勸率士卒、金鼓振天、歡聲動谷、一戰斬淵、淵軍大敗。

<清岡による訳>建安二十四年、(黄忠は)漢中の定軍山において夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の兵卒たちはとても精鋭だが、黄忠は先へとすすみでて必ず進み、士卒を率いることにつとめ、金鼓で天にはらい、歓声で谷を動かし、一戦で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗した。

【2675】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 輪っか  - 2007/1/6(土) 14:58 -

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   ▼将軍様さん:

確かに、一騎打ち等、名のある将同士の戦いは詳しい記述があったりしますよね。
やっぱり混戦の中での落命、と解釈するのが妥当なんでしょうか。


▼清岡美津夫さん:

>とりあえずお約束のツッコミで申し訳ないのですが、「夏候淵」ではなく「夏侯淵」ですよ。ネットによく見かける間違いなのですが…

あ!すみません…!仰るとおりです。
候と侯、またモニタで漠然と眺めているとパッと見わからないので、うっかり間違えてしまいます。書くときには間違えないのですけれども……注意します。ご指摘ありがとうございました。


記載抜粋もありがとうございました。
先主伝を見るに、白兵戦があったと想像してよさげな感じですね。

張コウへの援軍で兵を割く→黄忠軍の奇襲→乱戦→夏侯淵敗死

こんな感じ??
今、言葉になりそうでならないモヤモヤがあるのですが、ひとまず誤字のお詫びだけでも。

【2693】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 池田雅典  - 2007/1/10(水) 18:38 -

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   ▼輪っかさん:
たまたま見かけたので横から割り込ませていただきます。

 史書に「a討b、斬b」といった書き方がなされている場合、たいがい
「自陣営の武将が勝利し敵大将の首を取っ(て本国に伝送し)た」
と言う事を表すテンプレです。
「斬」は「斬り殺した」ではなく「首級を挙げた」の意味と解釈するとよいかと思います。
 また、『三國志』巻十七の「短兵接刃」ですが、
これも、史書が乱戦となったことを記述する際の慣用句ですね。
 さらには、大将自ら敵大将を討ち取るなんてのはまず有り得ませんから
万一そういう事があったなら、「自」「手」と言った字を足して
みずから、てずから、という事を強調するものです。
ここにそういう字が無いのは、「黄忠自らが一騎駆けに夏侯淵を斬った」
なんて可能性はございません、と史書がきっぱり否定しているも同じです。
「奈良の大仏を作ったのは誰?」「大工さん」なんてなぞなぞがありますが
指揮した人物の手柄を記すのが史書であって、実際にやった個人は問題ではないのです。
 さらに言うと、部下が亡骸を命がけで連れ帰る、という事態があったなら
敗北を覆い隠す意味でも、名前を明記しその忠義を顕彰するでしょう。
というか「斬」とある以上、少なくとも首は蜀軍の手に落ちていますね。

劉備軍は張[合β]の守る東陣営に夜襲をかけたが阻まれたため
(「備不能克」は、「劉備は勝てなかった」です)、搦め手から火計を仕掛けた。
夏侯淵は劣勢となった[合β]を救援すべく手勢を分け、少数で消火に向かう途中、
別道から進入していた劉備軍ともろにはち合わせてしまい、大混戦に陥った。
黄忠は果敢に隊を率い、抵抗する夏侯淵と趙[禺頁]の首を挙げ、成都に伝送した。

清岡さんの掲げた資料をまとめるとだいたいこういうことではないかと。
その後に首がどうなったかはちとわかりませんが、ある程度名のある人物であれば
そう粗略には扱わなかったんじゃないかな、とは思います。
<sage>

【2694】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 輪っか  - 2007/1/12(金) 2:31 -

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   ▼池田雅典さん:

> 史書に「a討b、斬b」といった書き方がなされている場合、たいがい
>「自陣営の武将が勝利し敵大将の首を取っ(て本国に伝送し)た」
>と言う事を表すテンプレです。
>「斬」は「斬り殺した」ではなく「首級を挙げた」の意味と解釈するとよいかと思います。
> また、『三國志』巻十七の「短兵接刃」ですが、
>これも、史書が乱戦となったことを記述する際の慣用句ですね。
> さらには、大将自ら敵大将を討ち取るなんてのはまず有り得ませんから
>万一そういう事があったなら、「自」「手」と言った字を足して
>みずから、てずから、という事を強調するものです。
>ここにそういう字が無いのは、「黄忠自らが一騎駆けに夏侯淵を斬った」
>なんて可能性はございません、と史書がきっぱり否定しているも同じです。
>「奈良の大仏を作ったのは誰?」「大工さん」なんてなぞなぞがありますが
>指揮した人物の手柄を記すのが史書であって、実際にやった個人は問題ではないのです。
> さらに言うと、部下が亡骸を命がけで連れ帰る、という事態があったなら
>敗北を覆い隠す意味でも、名前を明記しその忠義を顕彰するでしょう。
>というか「斬」とある以上、少なくとも首は蜀軍の手に落ちていますね。
>
>劉備軍は張[合β]の守る東陣営に夜襲をかけたが阻まれたため
>(「備不能克」は、「劉備は勝てなかった」です)、搦め手から火計を仕掛けた。
>夏侯淵は劣勢となった[合β]を救援すべく手勢を分け、少数で消火に向かう途中、
>別道から進入していた劉備軍ともろにはち合わせてしまい、大混戦に陥った。
>黄忠は果敢に隊を率い、抵抗する夏侯淵と趙[禺頁]の首を挙げ、成都に伝送した。
>
>清岡さんの掲げた資料をまとめるとだいたいこういうことではないかと。
>その後に首がどうなったかはちとわかりませんが、ある程度名のある人物であれば
>そう粗略には扱わなかったんじゃないかな、とは思います。


表記ルールというか、テンプレがあるんですね。
こういうことに明るくないので、詳しい方の解説が本当にありがたいです!
ついつい文字通りの想像をしてしまって、「???」となることが多くて(苦笑

【2876】Re:夏候淵@定軍山、その後。
 如墨委面  - 2007/8/7(火) 23:21 -

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   ▼清岡美津夫さん:
>ざっと見たところ、夏侯淵が殺される記載は三国志魏書武帝紀、三国志魏書夏侯淵伝、三国志魏書張[合β]伝、三国志蜀書先主伝、三国志蜀書黄忠伝の五カ所にありました。以下に抜粋しておきます。一応、素人丸出しで申し訳ないですが、私の訳もつけておきました。(以下略)


もう一ヶ所、蜀志『法正伝』にありますね。ここには、夏侯淵の首を取ったことが明記してあります。

二十四年、先主自陽平南渡ベン水、縁山稍前、於定軍・興勢作営。淵將兵来争其地。正曰「可撃矣」。先主命黄忠乗高鼓譟攻之、大破淵軍。淵等授首。

(建安)二十四年、先主は陽平より南へベン水を渡り、山の縁を少しずつ前進して、定軍・興勢に陣を敷いた。夏侯淵の将兵が来て、その地を争った。法正は「攻撃すべきである」と言った。先主は、黄忠に命じて高い所へ上がらせ、鼓を鳴らし喚声をあげさせて、これを攻め、大いに夏侯淵の軍を破った。夏侯淵らは首を取られた。


それから、夏侯淵を討ち取ったことについて、魏志『張[合β]伝』の注に興味をひく記事があるので、これも書いておきます。

魏略曰、淵雖為都督。劉備憚[合β]而易淵。及殺淵、備曰、當得其魁、用此何為邪。

魏略は言う。
夏侯淵は都督であるといっても、劉備は張[合β]を恐れ、夏侯淵を組し易いと見ていた。夏侯淵を殺してから、劉備は「一番の大物を得るチャンスだったのに、こんなことではしょうがないではないか」と言った。

この「當得其魁、用此何為邪」は訳しにくいですね。読み下しなら「當に其の魁を得べし。此を用(以)って何と為さんや」でしょうが・・・ まあ、適当に訳しました。

                   委面如墨

【3195】魏武軍策令
追記  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2008/9/7(日) 18:24 -

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   こんにちわ。
古いツリーを上げてしまうのですが、第9回三顧会のレポを書いていると、『太平御覧』に引く『魏武軍策令』に関係するのがあると気付き、追記しておきますね。


・『太平御覧』卷三百三十七 兵部六十八 鹿角

『魏武軍策令』曰:夏侯淵今月賊燒卻鹿角。鹿角去本營十五里、淵將四百兵行鹿角、因使士補之。賊山上望見、從谷中卒出、淵使兵與鬥、賊遂繞出其後、兵退而淵未至、甚可傷。淵本非能用兵也、軍中呼為「白地將軍」、為督帥尚不當親戰、況補鹿角乎!

<清岡による訳>
『魏武軍策令』に言う、
夏侯淵は今月、賊に鹿角(さかもぎ)を焼却された。鹿角は本営から十五里離れており、淵は四百兵を率い鹿角へ行き、それにより士にこれを補修させた。賊は山上で望み見て、谷中より兵卒が出て、淵は兵を共に戦わせ、賊はついに巡りその後へ出て、兵は退き淵は未だ至らず、はなはだ損なうばかりだった。淵は元より兵をうまく用いることができず、軍中では「白地將軍」と呼ばれ、督帥(将帥)においてはみずから戦うことやいわんや鹿角を補修することに当たらないことを願う。

【3204】Re:魏武軍策令
 池田雅典  - 2008/9/10(水) 19:32 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
失礼いたします。
訳文拝見させていただきましたが、
「從谷中卒出」は「谷中從り卒(にわか)に出で」、
谷からいきなりあらわれて、だと思います。

また、「為督帥尚不當親戰、況補鹿角乎」は
「督帥為るもの尚(な)ほ當に親ら戰うべからず、況や鹿角を補うをや」で、
「将帥たる者は(兵を指揮するのが役目であって)必ず自ら戦ってはいけない、まして(兵卒の役目である)さかもぎの補修などすべきではない」
とするのが宜しいかと。

御無礼申し上げましたことお詫びいたしますm(_ _)m

【3206】Re:魏武軍策令
感謝♪  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2008/9/10(水) 19:57 -

引用なし
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   ▼池田雅典さん:
>▼清岡美津夫さん:
>失礼いたします。
>訳文拝見させていただきましたが、
>「從谷中卒出」は「谷中從り卒(にわか)に出で」、
>谷からいきなりあらわれて、だと思います。
>
>また、「為督帥尚不當親戰、況補鹿角乎」は
>「督帥為るもの尚(な)ほ當に親ら戰うべからず、況や鹿角を補うをや」で、
>「将帥たる者は(兵を指揮するのが役目であって)必ず自ら戦ってはいけない、まして(兵卒の役目である)さかもぎの補修などすべきではない」
>とするのが宜しいかと。
>
>御無礼申し上げましたことお詫びいたしますm(_ _)m

訂正、ありがとうございます。
無礼なんてとんでもないですよ。

ネットにおいて訂正されずそのままってことは多々ありますので、たいへん有り難いです。
これからも何かあれば、ご指摘の程、よろしくお願いしますね。

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