三国志ファンのためのサポート掲示板 ※共同掲示板。話題は三国志関係。横レス歓迎。初心者モードの質問からマニアックな雑談まで
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【1198】袁紹は天下を取れたの!? 北陸校尉 2004/8/8(日) 8:20 教えて
┣ 【1203】根拠から示してみてはどうでしょう 白崎ゆきと 2004/8/10(火) 0:10
┣ 【1205】Re:袁紹は天下を取れたの!? 乍融 2004/8/10(火) 5:44
┗ 【3176】袁紹(倉亭の戦い、年齢)について R・F 2008/8/25(月) 22:00 教えて
┣ 【3181】『曹操 魏の武帝』 清岡美津夫 2008/8/27(水) 12:07 紹介
┃┗ 【3182】Re:『曹操 魏の武帝』 R・F 2008/8/27(水) 20:46
┃┗ 【3184】Re:『曹操 魏の武帝』 ペテン師 2008/8/27(水) 23:02 ひと言
┃┗ 【3185】Re:『曹操 魏の武帝』 2008/8/28(木) 22:45
┃┗ 【3188】Re:『曹操 魏の武帝』 ペテン師 2008/8/29(金) 22:03 追記
┗ 【3219】Re:袁紹(倉亭の戦い、年齢)について R・F 2008/9/24(水) 0:35 感謝♪

【1198】袁紹は天下を取れたの!?
教えて  北陸校尉  - 2004/8/8(日) 8:20 -

引用なし
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   どうも始めまして。
三国志歴わずか1年の北陸校尉と申します。

突然ですが、最近三国志系のHPをグルグル回っていたら、
「真の英雄・袁紹様」みたいな感じのHPがありました。
その内容ときたら・・・・とくに理由らしい理由もなく、
ひたすら袁紹を賛美する文章が書かれており・・・なんというか、
読み終えてしこり・・・もとい違和感を感じました。
好きな人物を褒めまくりたい気持ちは解りますが・・・、
やはり真実を理解・公表せねば、その人物自体(まあ、袁紹は死んでますけど)と、その子孫達に失礼な気がします。
(ちなみに私は袁術が大好きですが、彼は大馬鹿野郎だと理解してます)

私なりに調べた限りでは、袁紹本初とは―
1.お人良しで馬鹿 2.袁家という名門に生まれなければ何も出来なかった人
3.人徳無し、彼の元に人が集まったのは袁家の威光と財力のおかげ
4.貴族政治なんて馬鹿な制度を創ろうとした頓珍漢
5.ろくな部下把握も出来てない無能経営者
6.優柔不断さを爆裂させ、圧倒的勢力・兵力・財力を持ちながら、
全然活かせなかった(むしろ無駄に浪費した)最低群雄
7.いい年して、後継者もろくに決めなかった駄目親父
・・・と、これぐらいしか連想できないのです・・・・。

そこで、「袁紹は真の英雄」だ!ということを理論的に説明できるエピソードを
お知りの方がいましたら、是非、お教えしていただけないでしょうか。

【1203】根拠から示してみてはどうでしょう
 白崎ゆきと E-MAIL  - 2004/8/10(火) 0:10 -

引用なし
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   はじめまして、白崎と申します。

袁紹をある程度評価している方というのは結構いると思いますし、
自分もその1人ということになるのでしょう。
ただ、真の英雄とまで賞賛されている方となると
流石に少ないのではないでしょうか。

それに加えて今は休み中で、自然と掲示板の回転も落ちていますから、
そのような方が登場される確率は低いように思います。

とはいえ、レスがなければスレッドはどんどん沈んでいってしまいますので、
まずは北陸校尉さんがどういった事柄から
袁紹という人物のありようを導き出されたのか書かれてみてはいかがでしょうか?

いきなり「このように連想しました!
 これと正反対の素晴らしいエピソードを知っていて、
 なおかつそれを論理的に説明できるのなら教えてください」では、
あまりにも話の取っかかりが乏しすぎるように感じられますし。
<sage>

【1205】Re:袁紹は天下を取れたの!?
 乍融 WEB  - 2004/8/10(火) 5:44 -

引用なし
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   袁紹は相当に優れてますよ。
袁家の直接的な没落原因は
1袁紹の急死
2官渡の時の許攸の裏切り
3跡継ぎの未決定
と、三つありますが、どれか一つでも無かったら歴史は変わっていたでしょう。

袁紹のステキっぷりを表すのにとりあえず三つほど。参考にしてるのは後漢書と三国志程度ですが。

求心力。
袁家は各地に門生故吏を持ち、強大な人脈を持っていました。それが彼の軍事や政治に役立ったのは言うまでもありません。
官位も郎中…(中略)…司隷校尉・仮節(専断権の印)…(中略)…大将軍と高官を歴任しています。

軍事。
袁紹(というか厳密にいえば袁家勢力の軍という事ですけど)は非常に戦争上手で、公孫サンに大敗(界橋の戦いから始まる戦い)した以外は無敗で、官渡の戦いまでは連戦連勝でした。
まあ官渡の戦い時は部下をきちんと掌握できておらず、許攸の裏切りを許してしまい、これが致命的なダメージとなってしまいましたが。

政治。
彼の元では善政が行われていました。晋の時代まで彼の統治を惜しむ声が上がっていた、というほどですから。
ただし曹操の政治が法治主義に近いものである「厳」の政治だったのに対し、袁紹の統治は非常に緩やかで「寛」の政治でした。
政治について語ると長くなるので省略。

【3176】袁紹(倉亭の戦い、年齢)について
教えて  R・F  - 2008/8/25(月) 22:00 -

引用なし
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   お世話になります。

袁紹について質問です。
別にトビを立てようかとも思いましたが、ここで袁紹についてふれられているので、便乗させて頂くことにしました。

一つは、「官渡の戦い」の後に行われた「倉亭の戦い」です。
この敗戦の後、袁紹は冀州各地で多発した反乱を鎮圧するも病死します。
この戦いは曹操・袁紹の軍事力のバランスを変えた、かなり重要な戦いと私は考えていますが、参加武将・軍師・展開等の詳しいことはどうなっていたのでしょうか。
『演義』では程弔痢崕縮緬簓「侶廖廚ヒk召任垢氈「發舛蹐鵝慇技法戮傍Y椶呂△蠅泙擦鵑任靴拭」
ご存知の方、よろしくお願いします。

もう一つは、袁紹の年齢についてです。
場所は忘れましたが、三国志系の某サイトを覗いていたら、「袁紹は曹操より10歳以上年長」と断言している方がいました。
気になって調べてみたのですが、『正史』からの私の推定では、10歳以上年長どころか、曹操より下のような気がしてきました。
その点についてのご教示よろしくお願いいたします。

【3181】『曹操 魏の武帝』
紹介  清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2008/8/27(水) 12:07 -

引用なし
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   こんにちわ。

▼R・Fさん:
>もう一つは、袁紹の年齢についてです。
>場所は忘れましたが、三国志系の某サイトを覗いていたら、「袁紹は曹操より10歳以上年長」と断言している方がいました。
>気になって調べてみたのですが、『正史』からの私の推定では、10歳以上年長どころか、曹操より下のような気がしてきました。
>その点についてのご教示よろしくお願いいたします。

私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。


[#T2022]
↑あと今回のご質問とはほとんど関連性はないですが、参考までにツリーを挙げておきます。

【3182】Re:『曹操 魏の武帝』
 R・F  - 2008/8/27(水) 20:46 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん
いつも迅速なレスをありがとうございます。

>袁紹の年齢についてです。
>私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
>(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
>そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
>それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
>私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。

資料の提示ありがとうございます。石井仁/著『曹操 魏の武帝』ですね。図書館にでも行ったときに見てみることにします。

それと、私が「袁紹が曹操より年下」と考えた理由を記させていただきます。
私が参考にしたのは、『三国志』監修/松枝茂夫・立間祥介、全五巻。
第2巻「覇者の行動学」の袁紹の項です。

二公愛之、幼使為郎、弱冠除僕陽長、有清名。
遭母喪、服境(土ヘンなし)、又追行父服、家櫨(木ヘンなし、マダレ付)六年。
              (魏書・袁紹伝注)
本書の訳:(一部漢字変換できなかった原文をご容赦ください)
袁紹は二人の叔父に目をかけられて育った。まだ十代で近習として宮中にあがり、二十歳(弱冠を「二十歳」と意訳しています)で僕陽の県知事に就任して、優れた人物との評判を得た。
やがて母に死なれ、職を退いて礼の規定通り三年間の喪に服した、それが終わるとさかのぼって父の喪に服し、あわせて六年というもの服喪のための小屋で過ごしたのである。

原文・訳文が面倒なので、以下必要な部分のみを抜粋します。

10代:郎
20歳:僕陽の県知事
当時は霊帝の売官制度もあり、任期は1年だったような気がするのですが。どうでしょう?
21歳(?):母死去
 50ヶ月服喪(このサイトで喪の三年は25ヶ月とありましたので、×2で)
21歳(?)+50ヶ月:以後洛陽で人を避けて(名士とだけ会って)過ごす。
    ※この期間を何年と見るかですが、私は3年〜5年くらいと考えてます。
中常侍・趙忠に目をつけられる。叔父の袁隗に叱責され、大将軍(何進)の要請に応じて出仕。
188年 西園八校尉に就任。

何進が大将軍になったのは、黄巾の乱の年。この184年に出仕したとして、上記の計算では上限で30歳か31歳。
ちなみに、曹操は184年で30歳。

ただ、大将軍の要請とありますが、(後に)大将軍(となった何進)の要請、という可能性もあります。
徐晃の項で(後の)車騎将軍楊奉に仕えたという記述がありますからね。

ということですが。いかが思われますか?

【3184】Re:『曹操 魏の武帝』
ひと言  ペテン師  - 2008/8/27(水) 23:02 -

引用なし
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   ▼R・Fさん:
>▼清岡美津夫さん
>いつも迅速なレスをありがとうございます。
>
>>袁紹の年齢についてです。
>>私がよくアクセスするブログで最近、石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)について書かれた記事がありました。
>>(今、「曹操 魏の武帝」と検索すると結構、上位に来るブログです)
>>そのブログ記事で『曹操 魏の武帝』における曹操と袁紹の年齢差の記述について触れられていました。
>>それによると『曹操 魏の武帝』では「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
>>私自身、『曹操 魏の武帝』を読んだことなく手元にもないんですが、その文の前後関係やさらに文献を辿れる等は私からは不明です。
>
>資料の提示ありがとうございます。石井仁/著『曹操 魏の武帝』ですね。図書館にでも行ったときに見てみることにします。
>
>それと、私が「袁紹が曹操より年下」と考えた理由を記させていただきます。
>私が参考にしたのは、『三国志』監修/松枝茂夫・立間祥介、全五巻。
>第2巻「覇者の行動学」の袁紹の項です。
>
>二公愛之、幼使為郎、弱冠除僕陽長、有清名。
>遭母喪、服境(土ヘンなし)、又追行父服、家櫨(木ヘンなし、マダレ付)六年。
>              (魏書・袁紹伝注)
>本書の訳:(一部漢字変換できなかった原文をご容赦ください)
>袁紹は二人の叔父に目をかけられて育った。まだ十代で近習として宮中にあがり、二十歳(弱冠を「二十歳」と意訳しています)で僕陽の県知事に就任して、優れた人物との評判を得た。
>やがて母に死なれ、職を退いて礼の規定通り三年間の喪に服した、それが終わるとさかのぼって父の喪に服し、あわせて六年というもの服喪のための小屋で過ごしたのである。
>
>原文・訳文が面倒なので、以下必要な部分のみを抜粋します。
>
>10代:郎
>20歳:僕陽の県知事
>当時は霊帝の売官制度もあり、任期は1年だったような気がするのですが。どうでしょう?
>21歳(?):母死去
> 50ヶ月服喪(このサイトで喪の三年は25ヶ月とありましたので、×2で)
>21歳(?)+50ヶ月:以後洛陽で人を避けて(名士とだけ会って)過ごす。
>    ※この期間を何年と見るかですが、私は3年〜5年くらいと考えてます。
>中常侍・趙忠に目をつけられる。叔父の袁隗に叱責され、大将軍(何進)の要請に応じて出仕。
>188年 西園八校尉に就任。
>
>何進が大将軍になったのは、黄巾の乱の年。この184年に出仕したとして、上記の計算では上限で30歳か31歳。
>ちなみに、曹操は184年で30歳。
>
>ただ、大将軍の要請とありますが、(後に)大将軍(となった何進)の要請、という可能性もあります。
>徐晃の項で(後の)車騎将軍楊奉に仕えたという記述がありますからね。
>
>ということですが。いかが思われますか?


えっと10歳年長説は当方も賛成なんです。

袁紹の子供の袁譚と袁煕が190年の時点で成長(成人年齢にたしている)ようなので…

成人年齢に達しているとすると兄弟で18〜16歳くらいでしょうか
ここから
袁紹は二十歳で濮陽の長となり父母の喪で6年、その後洛陽に隠れ住んだのですからコレより以前に結婚しているとも思えないので、喪が明けてからの結婚だと思います。

単純に190年ー袁譚18歳+1(数え年齢)ー1(妊娠期間)−26歳=146年

この146年の年号に注目
本初元年となっています。
袁紹の字と符合します。
本初の年号はこの一年しかなく袁紹伝の『英雄記』いわく「当時の年号が初平、袁紹の字は本初であり、袁紹自身、年号と字が符合していた為、必ず自分が動乱を平定できると信じていた」と言うくだりがあります。
そこで当方は146年を生年としております。


190年は初平元年で146年は本初元年というだけの符合ですが、この年を袁紹の年齢とすると

146年誕生
165年濮陽の長
166年お勤め終了&洛陽に住む&喪服期間開始
167年喪
168年喪
169年喪
170年喪
171年喪
172喪服終了&その後結婚


190年袁紹の子供2人が成人している


…と考えております。
これなら喪に服しても190年までに余裕で子供が成人することが可能です。


曹操と同年ならば

155年+20歳ー1(数え分)=174年
この時点で残り16年です。
袁紹の子供2人の成人年齢には達することはないです。


ということで10歳は年齢が離れていると思ってます。

ちなみに張バクはこの袁紹よりも年齢が上となっています。

【3185】Re:『曹操 魏の武帝』
   - 2008/8/28(木) 22:45 -

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    二度目になりますが多少知る所なので投稿いたしました。
 袁紹が生まれた年は石井氏や上記の人が言うように曹操よりも年上だろうと思われます。東北大の大学院生の人が,袁氏の論文を書かれています。そこでも石井氏や上記の方の根拠の他,いくつか史料をあげて,やはり本初元年が生まれと論じていました。どうも146年生まれというのは,妥当なようです。

 喪については,足掛け三年のため,今日でいうところの六年とは異なりますから,丸々六年ではありませんが,その後も官途には就いていないようです。
 また先に書き込まれた方で大將軍の事に関する史料の読み方についての疑問がありましたが,その史料は確実に大將軍の辟召であり,184年乃至185年頃の応辟と考えられます。これは制度的な側面から断定できることです。
 なお20年近く官に就かなかったことになりますが,この頃の常識では別に珍しいことではありません。理由はそれぞれの家の問題などもあって異なりますが,40,50を超えてから出仕することは当り前の事でした。

 倉亭の戦いは「戦い」というほどの事はありません。『魏志』の武帝紀に

 六年夏四月,揚兵河上,撃紹倉亭軍,破之。紹帰,復收散卒,攻定諸叛郡県。

とあるだけです。文学が専門ではないので,断言できませんが,意図的に読み間違えれば,これを一つの文として理解して,この倉亭で敗れた後に袁紹が冀州に帰ったと読めます。しかし普通,これは引いた史料で最初に「。」をつけたところが文の切れ目で,前後の話はまったく別です。
 古代史の潜在的な問題点ですが,史料が少ないために何とも言えませんが,倉亭は東郡にあるので,袁紹側からすれば,黄河を渡った先の駐屯地になり,曹操が防衛線を黄河にまで引き戻したと考えるのが妥当であろうと思われます。

 後漢の研究は狩野直禎,東晋次,渡邉義浩,制度史で冨田健之の四名ほどしか専門的におこなっていませんが,将来の研究者候補では,早稲田や東北,九州大の院生で後漢の研究をしている人がでてきたので,まだ一般に浸透していない部分で活発な研究が行われているようです。
 袁紹で言えば,専門のテーマというわけではないのでしょうが東北大の人が相当研究しており,石井氏の弟子に当る人ですから,三國志学会等で石井氏等に質問すれば,一般に浸透していない情報が多く得られるのではないでしょうか。

【3188】Re:『曹操 魏の武帝』
追記  ペテン師  - 2008/8/29(金) 22:03 -

引用なし
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   袁紹の字なの本初が元年しかないのもあるのですが、何で本初とつけたのか一度考えたことがあります。
関係ないのかもしれないけど、本初元年って袁家の袁湯が司空になった年でもあるので、その慶賀あやかって付けたのかなって思ったりもしてました。

特に袁安の息子の袁敞が息子の不祥事で免官となって自殺した後だと思われるので尚更じゃないのかと思うのです。

【3219】Re:袁紹(倉亭の戦い、年齢)について
感謝♪  R・F  - 2008/9/24(水) 0:35 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:
▼ペテン師さん:
▼梟さん:

レスをありがとうございました。
亀レスになって申し訳ありません。

>えっと10歳年長説は当方も賛成なんです。
>袁紹の子供の袁譚と袁煕が190年の時点で成長(成人年齢にたしている)ようなので…

子供の年齢から逆算とは面白い見方ですね。まったく思いつきませんでした。
私が「袁紹10歳年長説」の可能性を感じたのは死去年齢からです。
202年で病死…。曹操と同年だと(数えで)48歳。敗戦で気落ちしているとはいえ、50前で病死。それだけならともかく、この計算だと、年下といわれている袁術
は40歳半ばにして病死(199年)したことになります。「50歳で天命を知る」と云われた当時でも、少し無理があるような気がしたわけです。

>大將軍の事に関する史料の読み方についての疑問がありましたが,その史料は確実に大將軍の辟召であり,184年乃至185年頃の応辟と考えられます。
>これは制度的な側面から断定できることです。

回答ありがとうございます。
『辟召』は府を開いた者(三公、大将軍)だけではなく、州牧・国相・郡守も行使できたと聞いていましたので、前職が河南尹であった何進に『辟召』されたのでは、と想像していたのですが、そうではなかったようですね。

>倉亭の戦いは「戦い」というほどの事はありません。『魏志』の武帝紀に
>六年夏四月,揚兵河上,撃紹倉亭軍,破之。紹帰,復收散卒,攻定諸叛郡県。
>とあるだけです。文学が専門ではないので,断言できませんが,意図的に読み間違えれば,これを一つの文として理解して,この倉亭で敗れた後に袁紹が冀州に帰ったと読めます。しかし普通,これは引いた史料で最初に「。」をつけたところが文の切れ目で,前後の話はまったく別です。
>古代史の潜在的な問題点ですが,史料が少ないために何とも言えませんが,倉亭は東郡にあるので,袁紹側からすれば,黄河を渡った先の駐屯地になり,曹操が防衛線を黄河にまで引き戻したと考えるのが妥当であろうと思われます。

ご指摘の通り、読み間違いをしていました。
ということは、袁紹が叛徒の鎮圧にかまけている隙を突いて、曹操が倉亭を攻略。
防衛ラインを黄河にまで押し戻した。
それから州内の鎮圧に出かけていた先から、冀州に帰った袁紹が敗兵を再編した、ということでしょうね。

>袁紹の字なの本初が元年しかないのもあるのですが、何で本初とつけたのか一度考えたことがあります。
>関係ないのかもしれないけど、本初元年って袁家の袁湯が司空になった年でもあるので、その慶賀あやかって付けたのかなって思ったりもしてました。

私も、同感です。出生年の年号を字にした人が他に思い当たりませんので、何か特別な意味を込めているような気がします。

清岡美津夫さんから紹介頂いた、
>石井仁/著『曹操 魏の武帝』(新人物往来社)
>「経歴からいって、袁紹の方が十歳ちかく年長だったはずであり」という記述があるようですね。
同書には、袁紹の経歴や曹操との係わりから、十歳ちかく年長だっただろうと書かれていますが、146年(本初)生まれについては触れられていませんでした。まぁ、曹操の事跡を主とした内容ですから、曹操とは関わらない部分に詳しい考察がないのは当然といえば当然ですが。

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