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張温&董卓vs辺章&韓遂(孫氏からみた三国志34)
050321
<<孫堅の進言と進軍(孫氏からみた三国志33)


   扶風美陽に駐屯し、諸郡の歩兵騎兵あわせて十万人あまりで園陵(みささぎ、お墓)を守っていた車騎将軍の張温(字、伯慎)と破虜将軍の董卓(字、仲穎)の軍の前に現れてのは、後漢紀1)後漢書董卓伝2)によると、辺章韓遂の軍(後漢書本紀3)では北宮伯玉の軍)。西から美陽まで兵を進めていた。

   そして開戦

   たちまち張温と董卓の軍が不利となる。
   もしかして、このとき、前回、紹介したように孫堅の軍が大敗北したんだろうか…(<<参照

   そして暦は中平二年(西暦185年)十一月
   何日かはわからないが、その両軍対峙する戦場に、夜、火のような流星があったようだ2)。その光の長さは十丈あまり(23mあまり4))。それは見た目の長さなのか、とかは現代人の我々の感覚にはさっぱりわからないんだけど、とにかく影響はあったようだ。
   その流星の光は辺章・韓遂の陣営を照らし、そのため、陣営にいた驢馬と馬はことごとく鳴いた。辺章・韓遂の軍の人々はこれを不吉と考え、金城(郡)に帰りたがっていた。ちなみに金城は辺章と韓遂の故郷の郡であり、この進軍の発祥の地(辺章と韓遂が北宮伯玉の軍に加わった地、下の地図と<<「孫氏からみた三国志25」参照)。

   対する張温と董卓の軍に流星の影響があったかどうかは記録がないので不明。だけど、辺章・韓遂の軍の方がよっぽど動揺していたんだろう。

   そういった辺章・韓遂の軍中の様子を知ったのが董卓。彼はこのことを喜び、早速、行動を起こそうとした。夜が明けると、右扶風出身の鮑鴻たちと兵をあわせ、共に攻撃した。
   辺章と韓遂の軍は流星でかなり浮き足立っていたようで、董卓たちの軍に大破させられ、数千もの首が斬られた。さすがの辺章と韓遂の軍も楡中というところへ敗走した。楡中とは金城郡の県の名5)だ(下の地図参照)。
   もちろん張温はこれに追撃をかける。その役目を命じられたのは盪寇将軍の周慎。彼に三万人の兵を授けた。この軍には孫堅(字、文台)がいたようだ。
   ところが山陽公載記によると6)、戦況を一変させた功労者、董卓はこれには不満があったようだ。周慎では勝つことができない、と思っていたようで、張温に進言する。曰く、周慎の軍の後に我が軍を駐屯させてください、と。
   張温はこの進言を聞き入れなかった。
   細かいことだけど、董卓はこの一部始終を皇帝に上言した……告げ口したの?(笑)   冗談はともかく、山陽公載記には董卓の回顧の言葉がのっていて、それによると張温は西方をこの進軍でしばらくは平定できると考えていたようで、そのため、董卓には別方面をあたらせたかったようだ。

   つまり、張温は董卓を兵三万人で、別方面へ先零羌を攻撃するよう進軍させた(下の地図参照)。ということは単純に考えて張温の本軍は四万人ぐらいかな。
   ちなみに董卓はそれで平定できないと考えていたが、前回の長安に出頭しなかった件もあってか、今回は命令に逆らわなかった。
追撃!
▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、ルートに根拠はありません


   まず追撃の盪寇将軍・周慎の軍の戦況から。後漢書董卓伝より。
   追撃に際し、軍中の孫堅から周慎へ進言があった。
「賊(辺章・韓遂の軍)は城の中に穀物がなく、必ず外へ兵糧を求めまわるでしょう。私は一万人を授かりその運ぶ道を絶ちたいと願います。そうすれば将軍(周慎のこと)は大勢の兵(二万人)をもって後に続いてください。賊は必ず困窮しあえて戦わなくても良くなります。そして羌族の中へ走り入り、力をあわせこれを討てば、涼州を平定できるでしょう」
   あと別の史書(山陽公載記)によると、孫堅は周慎に対し、孫堅自身が一万人の兵を率い金城(楡中を目指し?)へ進軍したいと願い、周慎には二万人で後に駐屯してもらおうとしていた。その理由は先にあげた史書と同じく、辺章と韓遂がいる城の中には兵糧がなく、外から運び入れているから、周慎の大軍を恐れ、簡単に孫堅の軍と戦うことはしないだろうということ。そこで、孫堅の軍がその運ぶ道を断つと、兒曹(ガキどもの意、辺章と韓遂の軍のこと?)が必ず羌谷の中へかえるとし、場合によっては涼州が平定されるだろう、と進言した。

   どちらの史書も孫堅の作戦は敵の補給路を断つこと。そうすればそれほど戦わずとも自然と勝利するというものだ。
   しかし、軍の三分の一をさくその作戦が気にくわなかったのか、成功の見込みがないと考えたのか、周慎はその進言に従わなかった。まぁ周慎は特に大きな官職についていなかった孫堅に対し、兵を一万もさく道理はないと思ったんだろうね。
   先の張温への分を含め、またしても孫堅の進言はしりぞけられる。

   それで周慎が起こした行動は正攻法。そのまま軍を率い、楡中の県城を包囲した。多分、後詰めはない。山陽公載記によると周慎自ら金城(楡中の県城のこと?)を攻め、その外垣を壊したので、周慎は張温のもとへ急使をやって、朝夕で勝利することを伝えた。
   ところが戦況は急変する
   辺章・韓遂の軍は別軍で、葵園狹に駐屯しており、周慎の(兵糧を)運ぶ道を断った。まさに孫堅が進言した作戦の逆パターン。周慎の軍はその補給路を断たれた。そのため、周慎は恐れ、荷車を捨て、撤退した。結果的に言っていること(勝利する)とやったこと(撤退する)が逆になってしまう。

   一方、破虜将軍・董卓の軍のこと。
   山陽公載記によると、まず部下の別部司馬の劉靖に歩兵騎兵四千人を持たせ、安定(郡)へ駐屯させた。先を進む董卓軍に対し、先零羌の軍は董卓軍の退路を断とうとしていたが、劉靖の軍が数万人いると思いそれをおそれていたため、董卓軍が少し攻撃しただけですぐ道が開いた。
   だけど、後漢書董卓伝や三国志董卓伝7)によると、どうやら董卓の軍は望垣(漢陽郡8))のz(峡と同じ意味? 二つの山が相迫り、中に水流を挟んだ谷)の北で、羌胡(先零羌?)数万人に包囲され、兵糧が欠乏した。この記述は山陽公載記の話の後だと思うけど、その間がないので、包囲されるまでの経緯は不明。多分、先零羌の軍が劉靖の軍の実体を知って、強気の行動に出たんだろう。もしかすると周慎みたいに補給路を断たれたのが先かもしれない。
   ともかく包囲された董卓は、そのまま進軍するか(攻撃するか)、撤退するかの決断を差し迫られていた。どちらにせよ、包囲されているので被害は甚大だ。
   そこで董卓は一計を案じる。
   董卓は自らの軍の食糧が不足していることが内外に知られていることをうまく使い、魚を捕りたがっているとみせかけ、川に近づき、川の中を渡り(水深が浅い?)、その川をせき止めた。望垣が渭水の南岸にあるんだけど、もしかして、この川とは渭水で董卓はその北岸にいたのかもしれない。話を戻し、川を堰き止めたところより上流は池みたいになり水が数十里(たまった川の距離?)、満ちた。その堰の下(下流側)を董卓の軍は通り、全員が通った後、堰を決壊させた。先零羌の軍はそれを知って、すぐに追撃したが、川が深くなっており、渡ることができないでいた。普段の水量だったらある程度、渡れたんだろうけど、一旦、堰き止めて、水量をためたんだから、すぐには渡れない状況だったんだろう。
   こうして董卓の軍は大した被害を受けずに撤退し、そして扶風(美陽のあるところ)に駐屯した。そして張温は長安に駐屯している。そのときの戦功で董卓は前將軍になりり郷侯に封じられ、食邑を千戸もらった。また、三国志孫破虜討逆伝8)によると孫堅は議郎になった(ただはっきりとした時期が不明なのでこのときの戦とは関係ないかも)。

   張温・董卓の軍はせっかく、司隷(美陽)では勝利したんだけど、涼州(楡中、隴西)では敗北を喫している。つまり辺章・韓遂の軍の侵攻をふせいだものの、依然、涼州の戦乱は続いていた。

   というわけで、まだ戦乱の話は続く。




1)   後漢紀の記述(本文のネタバレ含む)。「(中平二年)十一月、張温・董卓撃章・約、破之、約走金城」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。ここではまだ韓遂が韓約表記。
2)   後漢書董卓伝の記述(本文のネタバレ含む)。「并諸郡兵歩騎合十餘萬、屯美陽、以衛園陵。章・遂亦進兵美陽。温・卓與戰、輒不利。十一月、夜有流星如火、光長十餘丈、照章・遂營中、驢馬盡鳴。賊以為不祥、欲歸金城。卓聞之喜、明日、乃與右扶風鮑鴻等并兵倶攻、大破之、斬首數千級。章・遂敗走楡中、温乃遣周慎將三萬人追討之。温參軍事孫堅説慎曰:「賊城中無穀、當外轉糧食。堅願得萬人斷其運道、將軍以大兵繼後、賊必困乏而不敢戰。若走入羌中、并力討之、則涼州可定也。」慎不從、引軍圍楡中城。而章・遂分屯葵園狹、反斷慎運道。慎懼、乃棄車重而退。温時亦使卓將兵三萬討先零羌、卓於望垣北為羌胡所圍、糧食乏絶、進退逼急。乃於所度水中偽立[β焉]、以為捕魚、而潛從[β焉]下過軍。比賊追之、決水已深、不得度。時衆軍敗退、唯卓全師而還、屯於扶風、封り郷侯、邑千戸。」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」より)。このときの戦の様子が詳しい。
3)   後漢書本紀の記述(本文のネタバレ含む)。「(中平二年)十一月、張温破北宮伯玉於美陽、因遣盪寇將軍周慎追撃之、圍楡中;又遣中郎將董卓討先零羌。慎・卓並不克。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。まぁ、大まかに知るだけだったら、これで充分。
4)   長さの換算は角川新字源の付録より。
5)   楡中は金城郡に属す。例によって続漢書志第二 十三郡國五より。
6)   山陽公載記の記述(本文のネタバレあり)。といっても三国志の裴松之の注で引用されている部分だけど。多分、この書って現存してないよね? 董卓の回顧録っぽい切り口でなんだか二重三重にフィルターとおしているようで、変な感じ。『山陽公載記曰:卓謂長史劉艾曰:「關東軍敗數矣、皆畏孤、無能為也。惟孫堅小とう、頗能用人、當語諸將、使知忌之。孤昔與周慎西征、慎圍邊・韓於金城。孤語張温、求引所將兵為慎作後駐。温不聽。孤時上言其形勢、知慎必不克。臺今有本末。事未報、温又使孤討先零叛羌、以為西方可一時蕩定。孤皆知其不然而不得止、遂行、留別部司馬劉靖將歩騎四千屯安定、以為聲勢。叛羌便還、欲截歸道、孤小撃輒開、畏安定有兵故也。虜謂安定當數萬人、不知但靖也。時又上章言状、而孫堅隨周慎行、謂慎求將萬兵造金城、使慎以二萬作後駐、邊・韓城中無宿穀、當於外運、畏慎大兵、不敢輕與堅戰、而堅兵足以斷其運道、兒曹用必還羌谷中、涼州或能定也。温既不能用孤、慎又不用堅、自攻金城、壞其外垣、馳使語温、自以克在旦夕、温時亦自以計中也。而渡遼兒果斷葵園、慎棄輜重走、果如孤策。臺以此封孤都郷侯。堅以佐軍司馬、所見與人同、自為可耳。」』(「三國志卷四十六 呉書一孫破虜討逆傳第一」の注に引く「山陽公載記」より)。
7)   三国志董卓伝の記述(本文のネタバレあり)。このページの本文でここからへんから後漢書董卓伝と三国志董卓伝の記述がごちゃになってきてオリジナルっぽくなっている(汗)。後漢書の方は美陽の方を中心に描き、三国志三国志の方は撤退の見事さを中心に描いている観がある。「韓遂等起涼州、復為中郎將、西拒遂。于望垣z北、為羌・胡數萬人所圍、糧食乏絶。卓偽欲捕魚、堰其還道當所渡水為池、使水渟滿數十里、默從堰下過其軍而決堰。比羌・胡聞知追逐、水已深、不得渡。時六軍上隴西、五軍敗績、卓獨全衆而還、屯住扶風。拜前將軍、封り郷侯、徴為并州牧。」(「三國志卷六 魏書六 董二袁劉傳第六」より)
8)   三国志孫破虜討逆伝の記述。「拜堅議郎。」(「三國志卷四十六 呉書一孫破虜討逆傳第一」より) と前後関係をかかずにこれだけ抜き出してもよくわからんなぁ。
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