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西方から新たな脅威(孫氏からみた三国志25) |
040118
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<<戦いの果てに(孫氏からみた三国志24) 前回、あまり文台(孫堅)が出てないし、まだ黄巾編が終わっていなくて申し訳ないが、話が一気に飛ぶ。 まず文台たち、漢人とは人種が違う、西羌について話が始まる(飛びすぎ?)。 後漢書西羌伝によると1)、西羌の元々の出自は三苗という古代の未開民族とのことで、「姜」の姓から別れたとのこと。すなわち舜(五帝の一人。先史時代の人)の四凶(共工、驩兜、三苗、鯀のこと)2)の流れで三危(地名)の人々であり、その国は南岳(どこ?)の近くにあるそうな。 河關(涼州隴西郡)3)の西南に羌の地があり、賜支(地名)の岸辺から河首と呼ばれるところにいたるまで、綿の地が千里あるそうな。 南に蜀・漢(益州のところ)の砦の外の蠻夷(異民族)と接し、西北に ![]() 常に居住しているところはなく、水や草の近くに居住している。五穀を軽んじ(つまり農業をせず)、産牧(牧畜)を生業にしている。そのならわしや氏族は決まってなく、あるいは父の名、母の姓をもって種の呼び名としている。 というような西羌なんだけど、ここから「孫氏からみた三国志」の時代(黄巾の乱の時代)までいろんな西羌の部族(と呼んでいいかわからないけど、いろんなグループ)が歴史にでてくる。そしてそれらのいくつかは漢人と戦いの連続を繰り広げる。勝ったり負けたりくだったり。 |
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▲参考:譚其驤(主編)「中國歴史地圖集 第二冊秦・西漢・東漢時期」(中國地圖出版社出版)但し、画面上のルートの位置に根拠はありません で、話を黄巾の乱の時代に一気に戻す。 北地郡(涼州)に降羌(降伏した西羌)がいたらしい。北地郡とは先に触れた西羌の地域から結構、離れている(上の地図参照)。やはり古代からいろいろあって、民族の移動とかがいろいろあったのかな(すみません、ちゃんと史書を読んでません) 光和七年(西暦184年)の冬5)、その降羌の中で「先零」という種は、前回まで触れてきた黄巾の乱に乗じて4)、枹罕(地名)と河關(地名)の群盜(盗賊団?)5)とつるんで乱を起こした。ただ無秩序に乱を起こすんじゃなくて、ついに「湟中」という羌の義從胡(グループ名、張掖郡にいる胡族&西羌の種族)6)である北宮伯玉(個人名)と李文侯(個人名)を将軍5)、つまり自分たちのリーダーにした。その他にも涼州義從の宋建や王國7)、それから涼州の宋揚という人8)(宋建と同一人物?)も乱に加わっている。 そして、護羌校尉9)の役職についていた ![]() 護羌校尉は西羌担当の軍事的な役職。それは明らかに漢人の政府に対する反逆行為だった(いや、独立行為かな) そんなことが起こって漢人もだまっていない10)。 まず涼州の政府(涼州漢陽郡隴県にある?3))が動く……と言いたいところだけど、涼州刺史の左昌はこの非常時に当て込んで、軍の調達(物資とか兵とか)をやめることで、数千万(銭?)を着服する。もちろんこれを強くいさめる人は州の役所にいた。漢陽郡の長史の蓋勳(字、元固)という人。 左昌はそれに耳を傾けようとせず、逆ギレで怒りだす始末。そのため、左昌は蓋勳を別軍として前線で敵軍を拒むため、阿陽県に駐屯させる。左昌は蓋勳が負け、罰せられることをのぞんでいた。 ところが蓋勳はそうならず、数個の戦功をあげた。 左昌の思い通りにならず、蓋勳にとっては、してやったり、といったところだろうか。 話が少しそれたがともかく、漢人の政府にとって、黄巾の乱に手こずっていることが、まったく別の乱を引き起こすことになっていた。 一方、そのころ… 典略によると8)、漢人に韓約という金城郡(涼州)出身の人がいて、同郡出身の元、新安令(司隸弘農郡にある新安県の長)である邊允とともに西の州(涼州?)で名をあげていた。邊允は督軍從事という役職になっていた。韓約は会計を奉じるため、京師に行っていた。多分、ちょうど黄巾の乱が真っ最中の時期だと思うけど(自信なし)、そのとき、大将軍の何進(字、遂高。彼については<<参照)がその名をあらかじめ聞いていて、韓約と対面する。そこで韓約は何進に閹人(宦官)たちを誅するように(処刑するように)説得する。韓約の耳にも一部の宦官が私利私欲に走っていることを知っていたのだろうか(宦官についてはこことか<<参照) ところが何進はそれに従わなかった。さすがに黄巾軍のことが手一杯で一部の宦官と敵対している場合じゃないと思ったんだろう。おまけに、このことが他の人に知れたら宦官との間に余計な波風が立つとおもったのか、何進は韓約に故郷・金城郡へ帰るよう求める。 韓約が金城郡へ帰ると、ちょうど先に記した北宮伯玉の乱が起こっていた。 北宮伯玉の一派、王國(個人名)たちは金城郡が降伏したと欺いて、大人(大物?)の邊允、韓約との会見を求める7)。だけど韓約は会見しなかった。 金城郡の太守の陳懿はこの元へ誰かを行かすようにつとめたが、王國たちはあっさり韓約たち数十人を人質にとり脅した。金城に乱がおきた。陳懿は表に出てきた。王國たちは護羌(校尉?)の陣営へ赴くことで陳懿を殺す。そして用は済んだとばかりに、王國たちは人質から邊允と韓約を解放する。隴西郡にその愛憎が伝わり、なにを間違ったのか、金城郡のお隣、隴西郡の政府は邊允と韓約を反乱軍の主とみなし、さらに涼州の政府は邊允と韓約にそれぞれ千戸侯の賞金首をかける(これって刺史の左昌の仕事?)。お尋ね者となったもんだから、漢人の元へ帰らないと決意したのか、邊允は邊章、韓約は韓遂(字は文約。旧名の名残を残したかった?)と改名する。 ※すみません、ここらへん元ネタをうまく訳せてないので、まったく見当違いのことを書いているかもしれません。 ここから先は定かじゃないんだけど、別の史書によると、韓遂や邊章は北宮伯玉に脅されて、軍帥11)(軍師)、つまり專任軍政5)(専任の軍事と政治顧問?)にされる。韓遂も邊章も漢人たちから敵とみなされ居場所がなくなり簡単に屈したんだろう。それに、北宮伯玉たちはこういった組織だったことは、漢人の方が得意とにらんだのかもしれない。 軍帥を手に入れた北宮伯玉軍(先零羌軍)はそのまま州や郡(金城郡? 今回、軍の動きがよくわからない。)を攻め焼き払う。 もう韓遂や邊章も漢人からみて敵軍の一員だ。 光和七年冬のことだった(後漢書では10〜11月11)、後漢紀だと12月12)) このとき、韓遂、40歳前後8)。 中央の政府はまだ後始末も含め、黄巾の乱に追われているころだった。
1) 後漢書西羌伝冒頭の話(以下、本文のネタバレ)。西羌の説明。しかし、三苗なんて言われてもわかんない(汗)。姜姓と関係していたってのは意外。「西羌之本、出自三苗、姜姓之別也。其國近南岳。及舜流四凶、徙之三危、河關之西南羌地是也。濱於賜支、至乎河首、綿地千里。賜支者、禹貢所謂析支者也。南接蜀・漢徼外蠻夷、西北接 ![]() 2) ここらへんのカッコ付けは、角川新字源とか字通とか辞書を使っている。以下もたびたび。 3) ここらへんのカッコ付けの地名がどの郡に属しているとかは、後漢書の志の郡國で調べている。 |
4) 事件の真相その1(本文のネタバレ含む)。ここから先はいろんな史書のいろんな箇所から引用してまぜこぜにしているので、その部分に引用符をつけたい。で、栄えある一つ目は(←大げさな!)、後漢書の西羌伝の一部。「中平元年、北地降羌先零種因黄巾大亂、乃與湟中羌・義從胡北宮伯玉等反、寇隴右。」(「後漢書卷八十七 西羌傳第七十七」より)。例によって、中平元年は光和七年のことね。
5) 事件の真相その2(本文のネタバレ含む)。お次は董卓伝。さっきから固有名詞がうじゃうじゃと出てる。あと「 ![]() ![]() 6) 事件の真相その3(本文のネタバレ含む)。張掖郡にいた湟中月氏胡が、いかに、湟中(羌)義從胡になっていくか、ふれられているけど、本文では詳しく触れていない。胡と羌の違いってなんスか? 「湟中月氏胡、其先大月氏之別也、舊在張掖・酒泉地。月氏王為匈奴冒頓所殺、餘種分散、西踰〓領。其羸弱者南入山阻、依諸羌居止、遂與共婚姻。及驃騎將軍霍去病破匈奴、取西河地、開湟中、於是月氏來降、與漢人錯居。雖依附縣官、而首施兩端。其從漢兵戰鬥、隨 ![]() ![]() 7) 事件の真相その4(本文のネタバレ含む)。いよいよ正史系列からはずれてくる。韓約改名の謎が出てくる。「涼州義從宋建・王國等反。詐金城郡降、求見涼州大人故新安令邊允・從事韓約。約不見、太守陳懿勸之使往、國等便劫質約等數十人。金城亂、懿出、國等扶以到護羌營、殺之、而釋約・允等。隴西以愛憎露布、冠約・允名以為賊、州購約・允各千戸侯。約・允被購、『約』改為『遂』、『允』改為『章』。」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」の注に引く「獻帝春秋」より) 8) 事件の真相その5(本文のネタバレ含む)。邊章の亡くなったのはいつぐらいなんだろ。「遂字文約、始與同郡邊章倶著名西州。章為督軍從事。遂奉計詣京師、何進宿聞其名、特與相見、遂奉進使誅諸閹人、進不從、乃求歸。會涼州宋揚・北宮玉等反、舉章・遂為主、章尋病卒、遂為揚等所劫、不得已、遂阻兵為亂、積三十二年、至是乃死、年七十餘矣。」(「三國志卷一 魏書一 武帝紀第一」の注に引く「典略」) 9) 護羌校尉について。お給料は比二千石。武官の西羌担当といったところだろうか。「護羌校尉一人、比二千石。本注曰:主西羌。」(「後漢書志第二十八 百官五」より) 10) 事件の真相その6(本文のネタバレ含む)。本文を書き終えて、脚注を付け足しているときにこの文に気づく。そういや自分の州でいろんなことが起こっているのに、州の刺史はどうなったのか気になってたんだ。州の刺史は今から見ると絵に描いたような悪人だなあ。でも指摘されず歴史に名を残さなかった人はいっぱいいそうな予感(汗)。ちなみにここの文で邊章が出てるけど、本文とのつじつまが合わないので(というか、他の史書とつじつまがあわないので)、本文では登場させていない。「中平元年、北地羌胡與邊章等寇亂隴右、刺史左昌因軍興斷盜數千萬。勳固諫、昌怒、乃使勳別屯阿陽以拒賊鋒、欲因軍事罪之、而勳數有戰功。」(「後漢書卷五十八 虞傅蓋臧列傳第四十八」より)。ちなみにこの話はさらに続く。 11) 事件の真相その7(本文のネタバレ含む)。いつもだったら真っ先に出している後漢書本紀がこんなところででる。そういや、「(光和七年冬十月)湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛、以金城人邊章・韓遂為軍帥、攻殺護羌校尉伶徴金城太守陳懿。」(「後漢孝靈皇帝紀中卷第二十四」より)。脚注040112-7)の続き。 12) 事件の真相その8(本文のネタバレ含む)。後漢紀もこのポジション。「十二月、金城人邊章・韓約反。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。あー、シンプルは表記。そうそう、三国志でもそうだけど、これじゃ邊章・韓遂だけが反乱を起こしたようにみえるなぁ。 |
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