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皇甫嵩、失脚(孫氏からみた三国志31) |
040811
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<<斬司徒、天下乃安。(孫氏からみた三国志30) 戦の行方の前に少し昔話を1)。 そのときの回に書けば良かったんだろうけど、そうすると読んでいる人がそのことを忘れてしまいそうだったので今、これ見よがしに書く。 時はおそらく光和七年(西暦184年)八月ぐらい。まだ張角が健在だった頃。皇甫嵩(字、義真)が張角の軍と戦おうと北上していた頃だ(<<参照1、<<参照2、。ちょうど道中にあるに寄ったところ、中常侍の趙忠の屋敷が法に従わずほしいままにしていていたので、皇甫嵩はそれを没収するよう上奏した(チクった)。 中常侍の趙忠は<<前々回、でてきたところなんだけど、もっと話がさかのぼると、張角討伐戦のときに皇甫嵩の部下だった傅燮(字、南容)は、趙忠といざこざをおこしたというエピソードもある(<<参考)。 また、同じ中常侍である張讓も実は皇甫嵩と何かあったようだ。どの時期かはわからないけど、張讓は皇甫嵩に銭五千万を私的に要求したけど(収賄?)、皇甫嵩はそれに応じなかった。 これらのことで、中常侍の趙忠も張讓も皇甫嵩を恨んでいた。よく考えてみると逆恨みなんだけどね。 で、それを伏線にしつつ(?)、中平二年に戻る。 中平二年夏四月、庚戌の日(12日)2)、大風がふき、雨雹(ひょう)が降った。その雨雹は実った稲を傷つけた。去年の黄巾、今年の羌胡の戦乱でただでさえ国内が乱れているというのに。 中平二年五月3)。理由はわからないが、太尉のケ盛が罷免になったようだ。次は太僕の河内郡出身の張延(字、公威)が太尉となった。 中平二年六月4)、張角を討った功で張讓たち十二人の中常侍は列侯に封じられる。十二人の中にはもちろん趙忠も含まれている。ちなみに十二人は誰かってのは<<ここ参照 張角との戦いでは何も直に戦った者たちだけが賞賛されたわけじゃない。戦っている軍に物資を補給したり、戦略に基づき後方から指示をおくったり、と重要な任務がある。だけど、十二人の中常侍たちが実際に列侯に封じられるほどの働きをしたかどうかは、私は知らないけど(誤解かどうかわからないけど、いろんないざこざがあったからね)。 続いて中平二年秋七月5)、董卓(字、仲穎)&皇甫嵩の軍が北宮伯玉・邊章・韓遂の軍と戦っている三輔の地で螟(ずいむし、苗を食べる)が発生したようで、害をなしたようだ。ただでさえ戦で疲弊しているのに、さらに三輔の地は疲弊することに。 それから中常侍の張讓と趙忠が動き出す1)。 皇甫嵩が連戦しているのに戦功がなく、ものを多く無駄にしていると張讓と趙忠は皇帝に上奏した。このときの軍の責任者は董卓で、皇甫嵩は副官の立場だったのに、皇甫嵩を名指しだなんて、狙いは明らかだった(それか、官位的に董卓より皇甫嵩の方が上だからかな)。 案の定、皇甫嵩は戦地から京師へ帰還させられる。中平二年七月のこと6)。三月、四月、五月、六月、七月、と勝てずにいたのが帰還させる理由の決定打になったんだろうか。ちょうど、黄巾の乱のおり、冀州方面から連れ戻された董卓(<<参照)や荊州方面から連れ戻されそうになった朱儁(字、公偉)(<<参照)と似たようなケースかな。もっとももこのときはかなり大まかに二ヶ月、戦功がなかった場合だけど。 そして、皇甫嵩は左車騎将軍の印綬(官位・官職のあかし)を取り上げられ、さらに黄巾討伐の戦功により封じられた槐里侯(槐里県と美陽県の土地、合わせて八千戸)から都郷侯(二千戸)に変えられた、つまり戸(食邑)も六千削られた。 黄巾討伐の連戦で戦功をなしどんどん名をあげていき、天下を獲ることもすすめられたほどの皇甫嵩もここでついに権威を失墜させる。それは眼前の敵からではなく、後方の味方が原因だった。 皇甫嵩が軍から抜けた影響は大きく、邊章・韓遂の軍の勢いはいっそう強くなった7)。 (以下、2006年1月1日追記) さて、涼州では邊章・韓遂や羌胡の軍の勢いはいっそう強くなったんだけど、こと地方行政の人たちはどうだったかって話。実はどの時期かははっきり特定できないんだけど、タイミングがいいのでここで紹介。後漢書蓋勳伝から。 涼州の刺史(その州内にある郡の太守への監査役)は「西方からの進軍(孫氏からみた三国志28)」(<<参照)で触れたように、左昌って人で、横領の罪で辞めさせられたんだけど、その次に来た人が右扶風出身の宋梟という人だった040229-2)。その宋梟は涼州で反逆が多いことを憂い、蓋勳(字、元固)に次のように言う。 「涼州に学術が少ないため、ときどき反逆で暴れる。今、孝経が多く書き写されることが望まれ、良家は家庭でこれを習い、もろもろの人たちは人によって義を知るだろう」 「孝経」とは孔子と曾参の問答を記録したものだそうな14)。そういったためになるものが広まれば、義を知ることになり、争いもおさまると暗に言っているのだろう。 これに対し、蓋勳は次のように宋梟をいさめる。 「昔、太公が封じられた斉では、崔杼は君主を殺しました。伯禽が侯となった魯では、慶父が位を簒奪しました。この二国のどこに学者が少なかったのでしょうか? 今、難局をしずめる手だてを急がないで、すぐに非常の事(孝経のこと?)をすれば、すでに一つの州で恨みを充分、もたれているので、ふたたび朝廷から笑われるでしょう。勳(わたし)はそれでいいかどうかわかりません」 斉や魯は春秋戦国時代の国(ここでは細かい話は省く)で、その二国ではともに学術が少なくなかったわけではないのに、反逆的行為が行われた、と蓋勳は例をあげた。つまり学術が広まっているのとそういう反逆は直接、関係しないと蓋勳はいさめている。他の手だてをせず、のんきにそんなことしていれば、朝廷(中央政府)に笑われる、と蓋勳はいさめている。 だけど、宋梟はそのいさめをきかず、その旨を朝廷に上奏した。その結果はすぐに明らかとなった。宋梟は朝廷からの詔書でなじり責められ、怠慢の罪で涼州から朝廷へ召し返されてしまった。 その次の涼州刺史が赴任することになるんだけど、それはまたもう少し後の話。 中平二年八月8)。朝廷は司空の張温(字、伯慎040104-4)、<<ここ参照)を車騎将軍に任命し(別の史書をみると司空行車騎将軍。兼行?)、仮の節を与え、執金吾の袁滂を副官にした。 この張温を筆頭とした軍は、先の董卓&皇甫嵩の軍に比べ、詳しく史書に載っている。 董卓は破虜将軍に任命され、盪寇将軍の周慎と共に軍を持った。その軍の規模は諸郡の歩兵、騎兵、合わせて十万余りとなった。 それからようやく孫堅(字、文台)が張温の上表により、軍事に参加した9)。黄巾の乱のおり、朱儁(字、公偉)のもとで戦った功績が張温の目にとまったんだろうか。 また、揚武都尉としておそらく二月に参戦していた陶謙(字、恭祖)は司馬として張温の配下として軍事に参加した10)。陶謙はとても厚意にもてなされたが、彼はその事実を軽んじ、心は不服だった(理由はわからないけど…)。その後、軍はやめて帰ってきて(戦を? 訓練を? 後の話から依然、京師に居そうだからおそらく後者)、百寮(多くの官)が宴会し、張温は陶謙に酒杯をめぐらすようにたのんだが、陶謙は張温を人前ではずかしめた。張温は怒って、陶謙を辺境へ移そうとした。 ある人が張温に説いた。 「陶恭祖は本来、才略により公(あなた)に重んじられ、ひとたびの酔った上での過ちにより、それを見逃さず不毛の地へ遠く捨て、厚い徳はまっとうされず、四方の人士は望みをどこに落ち着けましょう。恨みを晴らすことで恨みをのぞくにおよばず、初めの身分に回復させれば、徳美が遠くまで届くでしょう」 張温はその言葉がその通りだとし、そして陶謙を帰還させた。 陶謙が帰ってくると、その人がまた陶謙に言う 「足下(きみ)は三公(司空の張温のこと)を侮り、自ら罪を作り、今、許され、徳は厚いものではない。本心をおさえ辞をひくうし謝罪して下さい」 陶謙は「諾(はい)」といった。 またある人は張温に言う。 「陶恭祖は今、深く罪を責め、根本より改めようと思ってます。天子に謝り、礼が終わると、必ず公(あなた)の門にいたりましょう。公(あなた)は彼に会い、その意をいさめてください」 そのとき、張温は宮廷の門で陶謙に会い、陶謙は仰いで言う。 「私は自ら朝廷に謝っているだけなのに、どうして公(あなた)のためになりましょうか」 張温は言う。 「恭祖の愚かな病はなお治っていないな」 とうとう彼のために酒が置かれ、初めと同じく接したそうな。 (関係ないけど、この「ある人」はこんな素晴らしい調停能力があるのに姓名が伝わってないのは惜しい) それと前々回の烏桓の話(<<参照)の続き。 実はあれだけ烏桓を徴兵するかどうかと議論したのに、結局、幽州の烏桓人の三千突騎を徴発したそうな11)(結局、応劭の意見は採用されなかったんだろうか?)。ところが、給付が支払われなかったので、みな、そむき本国へ帰ってしまった。 これに対し、前の中山相の張純はプライベートで前の太山太守の張舉に言う。 「今、烏桓がすでにそむき、みな乱を起こしたがっている。一方、涼州の賊は乱をおこしていて、朝廷はそれを抑えることができないでいる。また、洛陽(京師)では双頭の子が産まれ、この漢の朝廷が衰退し尽くし天下に二人の君主(天子)がいる徴(しるし)だ。子若(張舉の字?)と私が共に烏桓の衆を率い戦を起こせば、願いは必ず大業となる」 (「孫氏からみた三国志」では書いてないけど、光和七年六月に洛陽で「両頭共身」の子が産まれたそうな。あと、中平二年にも生まれたとかで12)) 張舉はこれに同意した。 とはいっても事が起こるのはまだまだ先の話。 (2005年10月6日追記)ちなみに本国へ帰った烏桓人の突騎と同じかどうかわからないが、このとき、公孫(字、伯珪)という人が烏桓突騎三千人のうち何人かを率いていたようだ13)。まだまだ先だけど、これから先、孫堅(字、文台)と関わってくることになる。 こんな状況で張温の軍は西の北宮伯玉・邊章・韓遂の軍と戦い始めるんだけど、京師を出発するまえに東でのある出来事に触れようと思う。
1) 皇甫嵩の昔話を唐突に。本文のネタバレ含む。急にそんなときの恨みを持ってこられてもね。中常侍もさすがの皇甫嵩にちょっかい出せなかったんだろうね。「初、嵩討張角、路由、見中常侍趙忠舍宅踰制、乃奏沒入之。又中常侍張讓私求錢五千萬、嵩不與、二人由此為憾、奏嵩連戰無功、所費者多。其秋徴還、收左車騎將軍印綬、削戸六千、更封都郷侯,二千戸。」(「後漢書卷七十一 皇甫嵩朱儁列傳第六十一」より)
2) 雨雹の話。引用は二カ所から。「(中平二年)夏四月庚戌、大風、雨雹。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「中平二年四月庚戌、雨雹、傷稼。」(「續漢書志第十五 五行三 大水 水變色 大寒 雹」より)。 3) ケ盛の罷免。引用は二カ所から。「(中平二年)五月、太尉ケ盛罷、太僕河内張延為太尉。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「(中平二年)夏五月、太尉ケ盛久病罷。太僕張延為太尉。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。 4) 中常侍、列侯に。「(中平二年)六月、以討張角功封中常侍張讓等十二人為列侯。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。 5) 三輔の地で螟発生。引用元ふたつ。「(中平二年)秋七月、三輔螟。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「中平二年七月、三輔螟蟲為害。」(「續漢書志第十五 五行四 地震 山崩 地陷 大風拔樹 螟 牛疫」より) 6) 皇甫嵩の帰還の年月。引用元ふたつ。「(中平二年秋七月)左車騎將軍皇甫嵩免。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「(中平二年)秋七月、車騎將軍皇甫嵩征邊章・韓約無功免。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。 7) 邊章・韓遂の軍の勢い。「明年春、將數萬騎入寇三輔、侵逼園陵、托誅宦官為名。詔以卓為中郎將、副左車騎將軍皇甫嵩征之。嵩以無功免歸、而邊章・韓遂等大盛。」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」より)。 8) 張温、車騎将軍になる。まず年月から。「(中平二年)八月、以司空張温為車騎將軍、討北宮伯玉。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。「(中平二年)八月、司空張温為車騎將軍討章・約。」(「後漢孝靈皇帝紀下卷第二十五」より)。 詳細はやっぱり後漢書の列伝。最後の方は次回以降のネタバレ。「朝廷復以司空張温為車騎將軍、假節、執金吾袁滂為副。拜卓破虜將軍、與盪寇將軍周慎並統於温。并諸郡兵歩騎合十餘萬、屯美陽、以衛園陵。」(「後漢書卷七十二 董卓列傳第六十二」より) 9) 孫堅の登場。これは三国志の彼の伝からの引用なんだけど、他の史書では後のエピソードで急に登場してくる。「邊章・韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年、遣司空張温行車騎將軍、西討章等。温表請堅與參軍事、屯長安。」(「三國志卷四十六 呉書一 孫破虜討逆傳弟一」より)。引用元では「中平三年」となっているけど、他の史書と合わせて考えて、この企画では中平二年にしている。 10) 陶謙が張温のもとへ。大まかには三国志魏書から。「參車騎將軍張温軍事、西討韓遂。」(「三國志卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八」より)。本文で続くエピソードはそこで引用されている呉書より。『後邊章・韓遂為亂、司空張温銜命征討;又請謙為參軍事、接遇甚厚、而謙輕其行事、心懷不服。及軍罷還、百寮高會、温屬謙行酒、謙衆辱温。温怒、徙謙於邊。或説温曰:「陶恭祖本以材略見重於公、一朝以醉飲過失、不蒙容貸、遠棄不毛、厚コ不終、四方人士安所歸望!不如釋憾除恨、克復初分、於以遠聞コ美。」温然其言、乃追還謙。謙至、或又謂謙曰:「足下輕辱三公、罪自己作、今蒙釋宥、コ莫厚矣;宜降志卑辭以謝之。」謙曰:「諾。」又謂温曰:「陶恭祖今深自罪責、思在變革。謝天子禮畢、必詣公門。公宜見之、以慰其意。」時温于宮門見謙、謙仰曰:「謙自謝朝廷、豈為公邪?」温曰:「恭祖癡病尚未除邪?」遂為之置酒、待之如初。』(「三國志卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八」の注に引く「呉書」より) 11) 烏桓や張純の話。後漢紀にもあったような気がするけどまぁいいか。『後車騎將軍張温討賊邊章等、發幽州烏桓三千突騎、而牢稟逋懸、皆畔還本國。前中山相張純私謂前太山太守張舉曰:「今烏桓既畔、皆願為亂、涼州賊起、朝廷不能禁。又洛陽人妻生子兩頭、此漢祚衰盡、天下有兩主之徴也。子若與吾共率烏桓之衆以起兵、庶幾可定大業。」舉因然之。』(「後漢書卷七十三 劉虞公孫陶謙列傳第六十三」より) 12) 両頭の赤ん坊。まず後漢書。「(光和七年六月)洛陽女子生兒、兩頭共身。」と「(中平二年)洛陽民生兒、兩頭四臂。」(「後漢書卷八 孝靈帝紀第八」より)。それと續漢書より。「中平元年六月壬申、陽男子劉倉居上西門外、妻生男、兩頭共身。」(「續漢書志第十七 五行五」より) 13) 公孫と烏桓三千突騎について。まず後漢書。「中平中、以督烏桓突騎、車騎將軍張温討涼州賊。」(「後漢書卷七十三 劉虞公孫陶謙列傳第六十三」より)。ここでは車騎將軍の張温と明記されているんで、時期が特定できる。ただそのまま鵜呑みにするとこの次の文と年月にかなり開きがでてしまうが。お次は三国志。「光和中、涼州賊起、發幽州突騎三千人、假都督行事傳、使將之。」(「三國志卷八 魏書八 二公孫陶四張傳第八」より)。前述の後漢書では「中平中」となっているから別の時期と思えるかもしれないが、三国志での「光和中」はあくまでも「涼州賊起」の時期で(「<<孫氏からみた三国志25」参照)、「中平中」なのは「督烏桓突騎」の時期であり、連続したことととらえることができる。 14) 孝経について。ちゃんと調べていない。「字通CD-ROM」の付録から。 |
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