紀元 | 年号 | 出来事 | 参照 |
| 光和 | 「國皇星」が観測される。 | >>● |
| 光和 | 自らを「大賢良師」と称し、「黄老道」というのをおさめていた張角は、弟子八人を四方へ送り込み、十年あまりの間、善道により天下を教化した。そのため、青州、徐州、幽州、冀州、荊州、楊州、 州、豫州の郡や国で人が数十万人ほど集まる。やがて、「蒼い天はもはや死んだ 黄色の天(黄天)が必ずはじまる その年は甲子(西暦184年)にある 天下は大いに幸せとなる」という流言が広める。 | >>● |
184 | 光和七年 | 張角の信者、「大方」の馬元義が荊州と楊州で数万人、集めた。馬元義は京師へ数回、行って、中常侍(宦官の役職)の封 や徐奉たちと内応する。三月五日に京師の内外(内が京師、外が冀州魏郡の から)で一斉に蜂起する計画。 | >>● |
184 | 光和七年 | 張角の弟子、濟南國出身の唐周が馬元義のことを上書し告発する。そのため馬元義は京師で捕らえられる。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇帝は三公(太尉、司徒、司空の三つの役職。最高位)や司隸に命令し、 鉤盾令という役職の周斌という人に三府(三公の役所)の属官を率いらせ、宮中の衛兵や禁中の人々が張角を信仰しているかどうか、証拠をあげ調べ、その結果、千人あまり、殺される。さらに冀州を探り、張角たちを追い捕らえようとする。 | >>● |
184 | 光和七年二月 | 張角の指令により、各地の「方」で一斉に挙兵する。その一人一人が黄色の巾をかぶっていたので、「黄巾」または「蛾賊」と呼ばれる。張角は「天公将軍」と自称し、張角の弟、張寶は「地公将軍」、張寶の弟、張梁は「人公将軍」と自称し官府(役所)を焼き、まちを攻め取り、州や郡はよりどころを失い、長官の多くは逃亡する。十日の間に天下はすぐに反応した。 | >>● |
184 | 光和七年 | 冀州の安平國と甘陵國の人々はそれぞれの國の王(安平王の劉續と甘陵王の劉忠)をとらえ、黄巾に呼応する。 | >>● |
184 | 光和七年三月戊申(三日) | 河南尹の何進(字、遂高)が大将軍に任じられる。何進は都亭(公設の亭)に将や兵を駐屯させ、八つの関、函谷、大谷、廣城、伊闕、 轅、旋門、孟津、小平津に都尉をおく。 | >>● |
184 | 光和七年三月壬子(七日) | 皇甫嵩(字、義真)や呂強(字、漢盛)の考えにより、張角以外の天下の「黨人」は許される。 | >>● |
184 | 光和七年 | 盧植(字、子幹)を北中郎将にし(副将に護烏桓中郎将の宗員、その他、北軍五校士)、皇甫嵩(字、義真)を左中郎将、朱儁(字、公偉)を右中郎将にする。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇甫嵩と朱儁は五つの校、三河(京師のある河南尹、その隣にある、河内郡、河東郡、この三つ)の騎兵、さらに精鋭を募集し軍を編成し、四万人余りの軍勢にする。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇甫嵩は傅燮(字、南容)を護軍司馬にする。 | >>● |
184 | 光和七年 | 朱儁は張超(字、子並)を別部司馬し、孫堅(字、文台)を佐軍司馬にする。孫堅は旅の商人や淮水や泗水流域(ともに川の名前)の精兵を募集し、合わせて千人になる。また、家族の居を寿春に移す。 | >>● |
184 | 光和七年 | 孫堅28歳と呉夫人の間に孫翊(孫儼)が生まれる。
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184 | 光和七年四月 | 朱儁の軍が潁川郡で波才が率いる黄巾の軍に敗れる。 | >>● |
184 | 光和七年四月庚子(二日) | 荊州南陽郡において黄巾の張曼成は「神上使」と自称し数万人を集めていた。南陽太守・ 貢は張曼成に殺される。 | >>● |
184 | 光和七年 | 黄巾の軍が汝南郡邵陵で汝南太守・趙謙をやぶっている。并州廣陽郡では黄巾の軍が幽州刺史・郭勳と太守・劉衛を殺している | >>● |
184 | 光和七年五月乙卯(七日) | 馬元義は車裂きの刑に処される。 | >>● |
184 | 光和七年五月 | 皇甫嵩の軍が豫州潁川郡長社で波才の軍に包囲される。皇甫嵩の軍は火計と夜襲を駆使し、波才の軍を敗走させる。たまたま京師から派遣された曹操(字、孟徳)の軍、朱儁の軍と共同で、波才の軍を大いにやぶり、数万の首を斬る。その功績で皇甫嵩は都郷侯に封じられ、車騎将軍040216-3)を兼行し、朱儁は西郷侯に封じられる。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇甫嵩と朱儁の軍は陽 で波才の軍をたおす。 | >>● |
184 | 光和七年 | 盧植の軍は張角の軍に連戦連勝で、冀州鉅鹿郡の廣宗に追いつめる。攻める準備をしていたところ、小黄門の左豐により偽りの報告をされる。そのため、盧植は京師へ連れ戻され死罪一等を減じられる。盧植の代わりに董卓(字、仲穎)が東中郎将となり派遣される。 | >>● |
184 | 光和七年六月 | 荊州南陽郡の宛に駐屯していた張曼成は百日あまりたった後、南陽太守に着任した秦頡により殺される。黄巾側は趙弘がたつ。 | >>● |
184 | 光和七年六月 | 交阯郡に駐屯する兵が刺史および合浦太守をとらえ、「柱天将軍」と自称する。交阯刺史として派遣された賈j(字、孟堅)に平定される。 | >>● |
184 | 光和七年 | 豫州の黄巾に対し、王允(字、子師)が豫州刺史に任命され派遣される。王允は荀爽(字、慈明)と孔融(字、文舉)という人を招き、従事とする。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇甫嵩と朱儁の軍は豫州汝南郡の西華まですすみ、彭脱率いる黄巾の軍と戦う。 | >>● |
184 | 光和七年 | 孫堅の軍は勝ちに乗じ攻めるが、敗北する。孫堅は負傷し、草むらの中で倒れる。後、孫堅の乗っていた馬に発見される。 | >>● |
184 | 光和七年 | 皇甫嵩と朱儁の軍は彭脱の軍を大いに敗る。王允の軍の勝利と合わせ、降伏した敵兵は数十万にものぼる。豫州の潁川郡、汝南郡、陳国の三郡は平定される。この功績により朱儁は鎮賊中郎将になる。 | >>● |