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▼muracchiさん:
個々人的な推測も含めて述べさせていただきます。
>例えば儒須の戦いでの呉の甘寧の清栄100人での夜襲など、曹操の陣屋の近くまで行ったとありますが、警備がある陣営ではとても難しいのではないかと思います。
「むじん書院」さん訳の『甘寧伝』より抜粋します。
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wu10-8;lang=Jp;option=HrHc
「『江表伝』に言う。甘寧はそこで手下から勇士百人余りを選り抜き、まっすぐに曹公陣営の前まで突き進む。逆茂木を抜かせ、塁壁を越えて陣営に侵入するなり、数十の首級を挙げた。北軍は驚き、太鼓を鳴らしてどよめき、松明を星のごとく掲げたが、甘寧はもう引き返して本営に入ったところで、鼓吹に演奏させて万歳を称えている。」とあります。
「曹操の陣屋の近く」ではなく、「曹公陣営の前」ですね。
百人の兵とともに曹操の軍の前にまで進み、こっそり逆茂木(柵)を抜き、防塁壁を越え、壁のすぐ内側で警備兵を一暴れ、数十の首級(甲首でないことから、警備の雑兵の首と思われます)を挙げ深入りすることなく敵が集結する前に撤退して、敵の肝を拉(ひし)いだ。ということではないでしょうか。
それでも、万余の敵兵のひしめく敵陣営に乗り込んだのは大した度胸です。曹軍の面目は丸つぶれでしょうね。事実であれば、ですが。
なにしろ、引用が信憑性に疑問のある『江表伝』からね。赤壁のとき、曹軍は八十万と書いた代物です。丸ごとの信用は危険かもしれません。
正史の『甘寧伝』本文には「二更の時刻、枚を含んで出撃した。敵兵は驚き、動揺して引き下がった」と、これだけです。
個人的な意見ですが、実際には夜襲(焼き討ちはともかく、夜間戦闘)はほとんどなかったと考えています。よほど地形を熟知していなければ迷いますし、同士討ちの危険も高いものがありますから。夜間に移動して、白みかけた早暁に戦闘開始、というところではないでしょうか。
>三国時代の戦争の仕方や陣の構え方など知っていると少し理解できるものなのでしょうか?
陣の構え方については、「定軍山の戦いで劉備が夏侯淵の陣営の逆茂木を焼き払った」とか曹操が、関羽を破った徐晃を讃えて「賊の包囲陣は塹壕鹿角が十重にもなっていたが将軍は戦闘を挑んで全勝」といっている表現もあります。ほかの記述にも多く出てくることから、陣営には「塹壕」「逆茂木・鹿角」「塁壁」は備えられていたと考えられます。
戦争の仕方や詳しい布陣については正史には、記述は乏しいようです。
良く引き合いに出されるのは、『袁紹伝』にある界橋の戦いですね。
「むじん書院」さん訳の『麹義』の項より抜粋します。
http://mujins.chicappa.jp/mujins/sanguo/k.html#Kiku-Gi
公孫サンは軍勢三万人に方陣を組ませ、騎兵五千人ずつを左右両翼にし、白馬義従が中央を固めた。更に弓弩部隊を左右に散開させていた。一方、袁紹は麹義に八百人を与えて先鋒とし、強弩兵千人をその左右から進ませ、袁紹自身は数万人を率いてその後に続いた。
ビジュアル的には、学研の歴史群像(B5サイズの赤い本です)の「三国志(上)」の冒頭にこの布陣が載っています。
私自身浅学の身ですので、なにか勘違い等がありましたら、ご指摘をよろしくお願いします。
それから、「むじん書院」さま。いつも勉強させていただいております。ありがとうございます。
今回、多く引用させていただきました。お見逃しくださいませ。
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