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>こんにちは、いつも勉強させていただいております。
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>今、二宮の変について調べているのですが、陸遜が流罪されたことについて、実際に陸遜が流罪されたのか疑問に思っています。
>陸遜伝では「甥の顧譚たちが皇太子のふところ刀になっていると言いがかりを付けられ、無理矢理流罪にされた。(訳:ちくま学芸文庫)」とあるのですが、陸遜が死んだ後に息子の陸抗が陸遜の配下の兵士を引き継いでいて、陸遜の死の翌年に諸葛恪と陸抗が任地換えして陸抗は柴桑に、諸葛恪が武昌に駐屯していることから、陸遜は死ぬまで官位も兵士も剥奪されることなく武昌にいたのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか?
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>もしや原文の「流徒」に流罪以外の意味があるか、この言葉が陸遜以外の部分に掛かっているのか(顧譚たちのこと?)とも思ったのですが、いかんせん漢文を読むことができないので、調べようもありません。
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>何かご存知の事があったら教えてください。
>よろしくお願いします。
呉書見聞の孫ぽこです。以後よろしゅう♪
私も陸遜の「流徒」についてはかなり疑問視しています。根拠は書かれているように、【陸遜死後も相変わらず陸家は孫呉政権において重鎮だった】という部分です。
中央研究院の漢籍電子文献で流徒を検索すると一つは陸遜の例、もう一つは虞翻の例が「流徒」と記されています。他にも交州などに流刑になったと思われる人物に甘寧の子、甘懐などがいますが、その場合は【子懐、以罪徒会稽、無幾死】とあり、流徒とはありませんが、似たような用例と思われます。
と言うわけで、ほとんど大した成果がないままですが(汗)、自分が呉書を見ていて少し感じる事は流罪?と筑摩訳にある場合でも、強制移住の後、中央府に戻ってくるという人物も、結構な数いるという事です。つまり、流罪?というより、中央府を離れさせる、政権の中心部から外すというニュアンスに見えます。
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