|
質問です。以下の数字に関することで。
人口 94万
戸数 27万
兵 10万
吏 4万
三国志のファンなら一度は見たことがあると思います。
そう、蜀が滅亡時のデータです。
これにもの凄く疑問があります。
人口を戸数で割ると、僅か3.4人。大家族主義のはずの当時なのに。
狩野直禎著『「三国志」の知恵』講談社現代新書によると「父の在世中に分財別居するのは『生分』と言って悪徳とされた」とあります。
また、益州の人口は後漢書によると約600万人。史書で「無人の荒野となった」と言われる洛陽ならともかく、さしたる戦乱が無かったといわれる益州でのこの人口減はなぜなのでしょう。
後漢書の人口統計は、戸数1100万に対し約5000万人。平均4.5人。
当時の人口統計の方法はどうなっていたのでしょうか?
豪族の所有する奴婢が数に入っていなかった事は聞いていますが(奴婢は人ではなく、物や家畜扱い)、一般の女性や子供・老人は数に入らなかったのか?
十万の兵は人口に含まれているのか?
呉や蜀では、兵は兵戸という奴婢と平民の中間的な身分にあったという話も聞きます。この身分の女性は兵としか結婚できなかったそうです。また、兵戸の家族は人口統計に含まれるのか。
以前に別のコミュでも質問をしたことがありますが、自分が納得できるような回答は得られませんでした。
ご存知の方が居られましたら、宜しくご教示ください。
|
|