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梟さん
ありがとうございました。
孝廉⇒郎中(比三百石)⇒比六百石・四百石・比四百石⇒千石
孝廉⇒郎中(比三百石)⇒六百石⇒六百石⇒比千石⇒千石
みたいな感覚で居ればいいのでしょうか?
▼梟さん:
> 地方官,具体的には州刺史(行政官と解して),郡太守,國相,県令,県長。これらは三年単位の任期です。
> これら地方官(刺史を除く)の「守」官,「行」官はまた難しい問題になるので別にしますが。
> なお前回書き忘れましたが范曄の『後漢書』は,任命が下った時期,現地に赴任した時期の書き分けをしていません。これが若干面倒な点です。原則,任命が下ってからの計算になります。ですので後の六朝時代に見られるように,例えば三年赴任するにしても,命令が下ってから,送別会だのなんだと一年くらい都にいて,それからようやく赴任するという事も多かったでしょうから,実際は,長史等の幕僚長が実権を握ります。(これらは地元の有力者から選ばれます。この構造については濱口重國とか東晋次が論文書いています。)それは後漢の特徴で,前漢は対照的に地方長官がそのまま,実権を握っています。
> これは中国古代史に限らず近現代史でも共通していますが,上にいけば行くほど,制度的に実はよく判らないことがあります。三公九卿については任期は不明です。まぁあってないようなものでしょう。
> あと中央の二千石クラス。所謂「顕官」というやつですが,これについても不明です。具体的には,光祿勳官属(中郎將・大夫)であったり五営校尉は,名門子弟などが割り当てられるようなもなので,次のポストの繋ぎなどにもなっているので,これも期間はあってないようなものです。
> どの時代にも共通することですが,官僚に対してポストが不足するので,ある程度人材を流動化しなければいけないということもあり,中央の二千石は,流動化のためのクッション的位置づけになっています。特に光祿大夫などは三公罷免後のポスト,侍中などは名門子弟で地方勤務をする必要がない,もしくはしたくない連中にあてられたりなどしています。この辺は生活の場が京師になる云云という話になります。(これは矢野主税が論文書いてます。)
> 判りやすく簡潔に整理すると以下の通りです。
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>三公九卿:期間あってないようなもの
>中央二千石(顕官):期間あってないようなもの
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>地方官(牧守令長):三年単位の更新
>その他六百石以下の官:原則三年単位の更新
>臺閣(尚書・御史)の六百石未満の官(郎・令史):三年ないし五年単位
>
>※ なお臺閣の六百石未満の官については,雑務多くて安月給なので,五年務めたら良い職(千石)に遷してやるから,というような規約で五年なので,また三年とか五年となることはありません。
>※ また臺閣の官で,かつ尚書(六百石)は不明ですが,それ以外の六百石以下の官は「半歳(半年)」もしくは「一歳(一年)」は試用期間として「守」を称します。「守尚書郎」等。この期間が過ぎると「真拜(正式な任命)」になります。
>
> もっと制度的に専門的に知りたい場合は以下の論文を参考にすれば良いかと思います。
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>永田英正「漢代の選挙と官僚階級」(『東方学報京都』四一冊、一九七〇年)
>福井重雅『漢代官吏登用制度の研究』(創文社、一九八八年)
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