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【3539】はじめて質問させていただきます 蜀犬 2009/10/15(木) 1:11
┣ 【3540】袁家の歴史史料・出典不明 清岡美津夫 2009/10/15(木) 18:13
┃┗ 【3543】Re:袁家の歴史史料・出典不明 R・F 2009/10/20(火) 19:55 ひと言
┗ 【3544】Re:はじめて質問させていただきます 2009/10/23(金) 23:48

【3539】はじめて質問させていただきます
 蜀犬  - 2009/10/15(木) 1:11 -

引用なし
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   はじめまして。駆け出しの三国志ファンの蜀犬です。
三国志の小説や正史の記述に興味があったので、最近読み耽っています。
メジャーにならない意外な記述ってあるんですね。『後漢書』での高幹の高評価とか『二十四孝』での袁術と陸績のみかん話とか。

そうした中で出てきた質問です。ネット上に「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」というような文章をよく見かけます。
おそらく2次的な情報源は別冊宝島編集部の『僕たちの好きな三国志』だと思われますが、この記述の元となる歴史史料(1次史料)はなんでしょうか?
『僕たちの好きな三国志』は、斬新な見解がある反面、人物批評で偏りがあるとも指摘されますが、どうなのでしょうか?

そして、上記の質問と全然関係がないのですが『三国志演義』の黄巾武将・程遠志の名前は、「ほど・とおい・こころざし」と日本語では読めます。
これは羅貫中氏が図らずしも後の日本人に主人公劉備ら一行の旅の行方を示した
伏線でしょうか(笑)。

至らない文ですが、宜しくお願い致します。

【3540】袁家の歴史史料・出典不明
 清岡美津夫 E-MAILWEB  - 2009/10/15(木) 18:13 -

引用なし
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    初めまして、清岡と申します。

 以下一文、お節介じみていてしかも目に付いた自分の書き込み[#3518]からの単なるコピー&ペーストですので、スルーしてもらって構わないのですが、[#T3517]同様、できれば投稿内容をあらわした題名にしてしていただいた方が、他の閲覧者にとって内容が把握しやすく、引いてはレスがより付きやすくなるかと存じます。


 それで本題なのですが、

>そうした中で出てきた質問です。ネット上に「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」というような文章をよく見かけます。
>おそらく2次的な情報源は別冊宝島編集部の『僕たちの好きな三国志』だと思われますが、この記述の元となる歴史史料(1次史料)はなんでしょうか?
>『僕たちの好きな三国志』は、斬新な見解がある反面、人物批評で偏りがあるとも指摘されますが、どうなのでしょうか?

 私自身、そういった史料を知りませんので、以下、ご存知の方が書き込みになるまでの前座みたいな書き込みになるかと思います(笑)

 ネット上でそのような文章をよく見かけるということですが、私は下記のサイト「戦略」での掲示板での書き込み以外、初耳でしたので、(別に疑っているという訳ではないのですが確認のため)試しに「"袁家の治世を慕う声"」でGoogleで調べてみると、いくつか掲示板の書き込みなりサイトのコンテンツなり見られますね。

・戦略
http://www.yo7.org/
・袁家の歴史史料・出典不明  (※上記サイトの掲示板の書き込み)
http://yo7.s185.xrea.com/3594-bbs/yybbs.cgi?list=pickup&num=5197

※「"袁家の治世を慕う声"」をGoogleで検索
http://tinyurl.com/yhzkpym


 普通に考えますと、選択肢の一つとして、第三者の立場となる掲示板(つまりここのサイト)に質問を書き込むよりは、そういった文章が書かれた掲示板の書き込み主なりコンテンツを作ったサイト管理人なりに、メールや掲示板を通じ質問した方が確実だと思うのですが、そこらへんを行われたのか、(素朴に)疑問に思いました。
 また、「2次的な情報源」とネットからそれぞれ引用し、どういった文章なのか明らかにした方がより建設的な議論ができるかと思います。例えば、「2次的な情報源」の文章とネットでの文章とを比較するだけでも、少なくともネットでの文章がどれほど「2次的な情報源」の影響を受けているのか判りますし。

 今のところ、情報が少ないので何とも言えませんが、[#T2022]のツリーを参考にすると、『後漢書』袁紹伝の注に引く袁曄撰『獻帝春秋』に「紹為人政ェ、百姓コ之。河北士女莫不傷怨、市巷揮涙、如或喪親。」とあり、また『三国志』巻五十七呉書陸瑁伝の裴松之注に「迪孫曄、字思光、作獻帝春秋、云迪與張紘等倶過江、」とあり袁曄は後漢末の人の孫世代であることなどから強引に想像してみます。
 『獻帝春秋』にあるこの記述を「河北では袁家の治世を慕う声があった」と要約され、さらに『獻帝春秋』が晋代に書かれたものとし、まとめて「河北で袁家の治世を慕う声があったことが晋代まで伝承されていた」となり、それが転じて(変容して)「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」となったのかな、と想像してみました。

【3543】Re:袁家の歴史史料・出典不明
ひと言  R・F  - 2009/10/20(火) 19:55 -

引用なし
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   ▼清岡美津夫さん:

>ネット上でそのような文章をよく見かけるということですが、私は下記のサイト「戦略」での掲示板での書き込み以外、初耳でしたので、(別に疑っているという訳ではないのですが確認のため)試しに「"袁家の治世を慕う声"」でGoogleで調べてみると、いくつか掲示板の書き込みなりサイトのコンテンツなり見られますね。

主観ですが。ネットで袁紹についての話になったときには、出てくる頻度は高いように思われます。袁紹は「演義」の影響で「優柔不断で優秀でなく、あるのは四世三公の威光だけ」のイメージが強く、その袁紹の意外な「実像」を紹介するという感じですね。

私も、袁曄撰『獻帝春秋』の「紹為人政・・汗ォ芝掘2亘婿僚・纎サ・紂∋垤・・沺・^秦喊董・廚・汽優燭隼廚辰討い泙靴拭3里・砲柑愿Δ猟未蝓嵜犬了・紊砲覆辰討癲廚箸いκ犬呂匹海砲發△蠅泙擦鵑諭」

しかし、『僕たちの好きな三国志』がこれら全て「晋の時代になっても河北では袁家の治世を慕う声があった」の元ネタとすると、中々大した影響力ですね。

ところで、紹介になりますが、こういう文を見つけました。

中根東龍氏の「『新唐書』宰相世系表に見る三国時代の武将達の子孫」
http://ueno.cool.ne.jp/souryuu/san-keizu1.html
に、『新唐書』宰相世系表四下・袁氏、についての紹介を行ったあと、個人的なコメントとして、以下のような文があります。

「袁氏は新唐書宰相世系表にもかなりの人物を載せており、宰相に登りつめている人物だけで3名をあげることができる。袁紹が非常に善政を敷いていたことがかなり中世中国では伝説化していたようで、隋に至っても袁紹を讃える声があったというから、おそらく河北での袁氏人気が非常に高かったために、例外的に生き残りに成功したものではないかと考えられる」

これも、一次史料が不明ですね。気になるところです。
ご存知の方、宜しくお願いします。

あまり引用するのも何なので、このくらいにしておきます。

【3544】Re:はじめて質問させていただきます
  E-MAIL  - 2009/10/23(金) 23:48 -

引用なし
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    管見のかぎり「晋の時代になっても、河北では袁家の治世を慕う声があった」という話の根拠は知りません。以前,私が少し書き込みしたように,袁氏の評判自体は後の時代でもそんなに悪くありません。最近は,別に悪役に仕立てる意味がなかったからなのではないか,とは思ってきていますが。
 ちなみに宰相世系の話は眉唾物で,系図なんてものは,あてになりません。矢野主税という学者が,『魏晉百官世系表』(考証はせず,原典に依拠しているので,ところどころ年代があわないものもあります。)というものを作っていますが,それを見れば判るように,後漢の名族汝南袁氏と,魏晉南北朝隋唐の名族陳郡袁氏はまったくの別系統です。同系統とすると辻褄があわなくなります。ただ,同族であるということを,おそらく魏晉以降に,そういう話にしてしまったので,そういう事情を知らず,家譜の類を額面通り信じると,変な結論になることがあります。
 あとは史料の問題が結構多い時代なので,その辺の扱いを知らないと,諸々の後漢書が出てくる呉・両晉に編纂されたいくつかの後漢書で,たまたま袁氏の評価が陳壽と違って良いから,その頃は袁氏の評判がよかったのでは的に,間違った根拠の上に推測に推測を重ねる,というのは卒論レベルの人々によくみられることではないかと思います。史料の問題については早稲田で出してる確か,正史の基礎的研究とかっていうタイトルの専門書でも見ていただければわかります。

 私は晋代の袁家の評価云々ということは知らないので,一応,念のため知り合いの袁氏に詳しい東北大の院生に聞いたら,やはり,そんな話は聞いたことがないとのことでした。多分,根拠のある話ではないと思うのですが,無理やりそう考えるとすれば,一つ可能性がある話があるとのことでした。
 袁安碑・袁敞碑というのがありますが,これが同じ時期に建てられているんですね。あと○博碑というのがあって,○の部分が欠落しているのですが,尚博説と袁博説があって,これを袁博とすると,袁敞の子なので,どんなに早くともこれらは後漢後半期に建てられたと普通は思われているものです。一般的には後漢後半期,順・桓・靈帝あたりの建立と考えられてますが,ただ書道史の分野なんかでは,マイナーな説ではあるのですが,これらの碑文の字形から三國時代以降の建立ではないか,と考える人もいるようで,三國時代としても,汝南袁氏が表面的には没落したということになっているので(実際は,出土史料等を見るに,在地的に影響力は発揮しているようですけれど。),それ以降に建てられたとするなら,それなりに評判がよかったのではないか,という類推からくるのではないか,ということです。ただし「河北」と特定できるわけでもなく,あくまで建立年代はマイナーな説をとった場合である,ということは注意しておかなければなりません。

 ちなみに宮川尚志という学者は袁紹が冀州に出奔したのは,冀州に門生故吏が多かったからだ,的なことを言っていますが,これは根拠がある話ではありません。知人によれば,根拠と思えなくもない話はあるようですが,少なくとも確実な根拠ではありません。例えばこういう話を鵜呑みにして推測の上に推測を重ねると河北は昔から袁氏と繋がりが深く・・・,晉で袁氏が云々という話もでてくるのかもしれませんが,直接的にはそういう根拠はないのでしょう。
 袁氏に否定的な記事もそんなにありませんが,肯定的な記事というのも,『獻帝春秋』の記事だけですので,なかなか微妙なところではあります。『獻帝春秋』は裴松之が言うには信用できない記事のようですが,裴松之の評価が胡散臭いですからね。
 あとはあまり信用できない,宰相世系とか元和姓纂の説では楽陵袁氏という河北にいるとされる袁氏が袁紹の子孫ということになっているので,その辺からの恣意的な推測なのかもしれません。ちなみに陳郡袁氏は名門で,東晉以降の南朝に於いては,四大僑族に数え上げられる門閥貴族だったりと,袁氏が生き残って,汝南と同系統とされていたりと,そういう諸々の要素から推測して都合よく解釈した結果なのではないでしょうか。

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