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▼中根東龍さん:
>陳寿の正史三国志の趙雲伝本文を読まれたのでしょうか。
>「長坂に於いて劉備の妻子を救ったこと」は陳寿はキチンと書いていますね。
>また、勇猛な武将であったと陳寿本人が末尾の評において述べていますね。
>
陳寿の正史読んでますがなにか。
「長阪に於いて妻子を救った」ことはかいてますねー。でもコレはっきり言って全然する必要ないことです。
このようなことは劉禅が帝位についたから目がいくだけのことであって、逃亡する時に妻子を置き去りなんていうのは昔からありますし、劉備など何度妻子をなくしています。劉邦も逃げる為に子供を落とすなど平気でしています。
妻子に関しての扱いなど実に軽いものです。
この時、本来守るべきは主君である劉備であり赤子ではありません。
趙雲が果敢、勇猛に戦ったのは箕谷で戦ったから『子竜一身胆なり』の言葉を頂いていますが、遭遇戦に於ける負け戦です。
敵が引いて帰っていくのですから多勢に無勢であるなら大人しくしていれば良いものを敵に突っ込み少しばかりの戦果を挙げることをしています。
生き残っているから誇張されるものの相手が押し寄せてきたら陣営の武将どもも全滅している可能性もあるのですが、考慮しているとは思えませんね。
個人的勇であり、戦死していれば単なる匹夫の勇になりかねません。
また、趙雲は一時的に劉備の江南平定時に桂陵太守になっていますが、それ以降死ぬまで本官には就けていません。
蜀平定時も翊軍将軍という雑号にはなっていますが、それだけです。
あの馬謖や孟達・向朗などが太守になっていても、趙雲は県令や県丞すらにもなれていない所を見ると太守とするには能力不足だったのではないかと勘ぐりたくなる所です。
>生前から評価が高くなければ、素性不明、一介の騎兵隊長に過ぎなかった趙雲が中護軍・征南将軍までのぼり詰めることはなかったでしょう。征南将軍は九品官人法においては官品二品、国務大臣クラスの役職で、通常の庶民では絶対になれない官職です。
此処についてはむじんさんが僕が言うべきことを少しばかり代弁してくれてますのであまり書くところがないけどとりあえず書く。
しかし、魏の九品をそのまま適用して考えられるとはねー。これこそ『いい加減なことを書くのはいけないことです』ですね。
中護軍・征南将軍になったのは223年です。
このときの蜀に残っている最古参といえば劉琰か趙雲だけです。
中国は古参や年長者にたいする礼もあるのでしょうが、趙雲がその地位につけたのは赤子の時に助けられた。その一字にかかっているものと思います。
魏でいう賈詡みたいなもので、その恩に報いた形の現れでしょう。
蜀における四征将軍はこの頃って雑号の一種ではなかったっけの〜★
それに四征将軍より、この場合は中護軍の方が意味があるように思われるんですがね…
中根殿
猪武者などとは一言も正史に書いていませんが、他の武将と比較して考えた時に古参の類でありながら大軍を率いたこともなく、仮節もなく、太守でもない。
そのような所を加味して単なる猪野郎という評価を下しているわけです。
列伝をバカ正直に受け止めていては見逃すものも多いと思いますよ。
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