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【2447】孟達の援軍拒否について 2006/8/18(金) 1:42 初心者質問

【2449】Re:孟達の援軍拒否について ケンケン 2006/8/19(土) 12:13 ひと言
┗ 【2451】Re:孟達の援軍拒否について 2006/8/19(土) 19:59 初心者質問
┗ 【2453】Re:孟達の援軍拒否について 馬秉 2006/8/20(日) 18:30
┗ 【2457】Re:孟達の援軍拒否について 2006/8/21(月) 19:14

【2449】Re:孟達の援軍拒否について
ひと言  ケンケン  - 2006/8/19(土) 12:13 -

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   ▼餡さん:
>初めての投稿です。よろしくお願いします。
>さっそくですが、質問というか皆さんの意見を伺いたいです。
>
>呉の呂蒙に荊州が攻められ危機に陥ったとき、関羽が廖化を使者に援軍を求めてくるシーンがありますよね。
>そのとき劉封に相談された孟達は、
>1:上庸を降伏させたのはつい最近であり、まだ安定していない。
>2:呉は三、四十万、魏は四、五十万の大軍を従えており、救援に行くのは死にに行くようなもの。
>と述べ、劉封に援軍の要請を断るように言っていますよね。
>
>そこで質問なのですが、皆さんは「援軍を送らなかった」、この孟達の判断は正しかったと思いますか?
>孟達としては、自分の命が惜しいというのもあったでしょうが、
>現実的に救援に行ける状況ではなかったのではないかと自分は思うのですが。
>とは言っても、三国志は詳しくないので、出来ればその状況などを説明してくださるとありがたいです。
>(蒼天航路では、上庸軍二万。うち降伏兵が三分の一と書いてありましたが。)

ぼくなりの、勝手な考えでいくと・・・

1:やはり命が惜しかった
2:自分の能力なら、どこに降伏してもそれなりの地位にはつける

ってのが孟達の考えじゃないですかね。

でも、せっかく副将の寥化が頼みに来てるんだから関羽の仮の甥っ子である劉封は、救援に行くべきだったのではないでしょうか。

孟達の判断は、「正しかった」のでは?
魏では曹ヒにかわいがられてるし。

【2451】Re:孟達の援軍拒否について
初心者質問    - 2006/8/19(土) 19:59 -

引用なし
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   >ぼくなりの、勝手な考えでいくと・・・
>
>1:やはり命が惜しかった
>2:自分の能力なら、どこに降伏してもそれなりの地位にはつける
>
>ってのが孟達の考えじゃないですかね。
>
>でも、せっかく副将の寥化が頼みに来てるんだから関羽の仮の甥っ子である劉封は、救援に行くべきだったのではないでしょうか。
>
>孟達の判断は、「正しかった」のでは?
>魏では曹ヒにかわいがられてるし。

ケンケンさん、ご意見ありがとうございます。

途中で調べていて分かったのですが、寥化が上庸に援軍を要請しに行くというのは演義の創作らしいという話を聞きました。
私自身、正史は読んだことがないので、横山三国志の「寥化が援軍要請に行った」という記述をまんま正史にあることだと捉えていました。
これを見て混乱してしまった方、すみませんでしたm(_ _)m
正史と演義の知識がごっちゃまぜで、演義の知識をもとに質問してしまったのですが、
出来れば正史のことについて聞きたいので、訂正してくださるとありがたいです。

そこで改めて質問なのですが、自分は演義と正史をごっちゃまぜにしてしまってるみたいなので、取りあえず関羽からの援軍要請があったきの関羽の状況(関羽軍の残存数・現在地、上庸の状況、魏呉軍の状況など)について聞きたいと思います。
なので、それについて書かれているサイトなどを紹介していただけたらありがたいです。
それを見て、改めて孟達の援軍拒否について考えたいと思います。

ちなみに私の主張は、関羽の死については関羽自身の責任で、援軍の有無が死につながったわけではないと思うので、
そのことを咎められる謂れはないんじゃないか、ということです。
そういう意味で孟達の援軍拒否の正当性について質問したかったわけです。
上に書かれた質問文だと分かりにくかったですね。
すみませんでした。

【2453】Re:孟達の援軍拒否について
 馬秉  - 2006/8/20(日) 18:30 -

引用なし
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   今正史の「劉封伝」をちょこっと見たところ、

「関羽は樊城・襄陽を包囲して以来、劉封・孟達に軍兵をくりだして、
何度も救援してくれと呼びかけたが、両名は『山中の郡が従属したばかりなので、
動揺を与えてはいけない、と断り、たまたま関羽が敗北を喫した為、先主(劉備)はこれを恨んだ。」

とあります。

さらに続くと、
「前から両名は互いに反目しあっていて、仲が悪く、劉封はやがて孟達の軍楽隊を没収した。
孟達は(恐らく関羽の)罪を恐れたうえに劉封に対して、憤怒と怨みの念を抱き、
かくて、先主に上表して別れを告げ、軍勢を率いて魏に降伏した。」

とあります。

以上のことから、
関羽は常々上庸の劉封・孟達に援軍の要請をしていたが、
上庸を平定したばかりなので動揺を与えてはいけない等、
何かと理由をつけ、援軍の要請を断っていた。

表面上は"上庸を平定したばかりなので動揺を与えてはいけない"だが、
内面では劉封との不仲、降伏したばかり(219年に降伏)の申耽、申儀や、
その元配下の兵の謀反が気にかかっていたのかもしれません。
(孟達は中々の知者だと思われるのでなにか謀反の兆候や申兄弟の国に対しての忠誠のなさ等を感じていたかもしれません。)
 以上が援軍要請拒否の理由推測です。

他の事(上庸の兵力(正規軍、降伏軍)・関羽の兵力)は劉封・孟達の事が載っている、
ページを見たかぎりでは分かりません。
関羽のことは、載っているページ数が多すぎるので後で全部調べたいと思います。
あとサイトですが調べてないのでお役に立てません...すみません。

関羽の事ですが伝記を見ると(要約します)
「関羽の娘を孫権の息子に嫁がせたいと話、拒否されます。(多分)その後、
干禁を降し、ホウ徳を斬った所で曹操は(司馬懿・蒋済の献策)孫権に、
関羽の背後を突くように要請をし、その頃から関羽は、麋芳・博士仁が、
全力を挙げて救援しないため『帰ったらお前達を処罰しないとな』と関羽が言った所、
ひどく恐れ、孫権の離反要請を受けてしまいました。

後方を遮断され、妻子を捕らえられ、前方には徐晃が現れたため、敗北を喫した。
後退するも、臨祖にて子の関平とともに殺された」
とのことです

長くなり、さらに推敲をしてないので読みにくいところもあるかもしれません。
その際はご指摘ください。
至らぬところはどなたか援軍を頼みます。

【2457】Re:孟達の援軍拒否について
   - 2006/8/21(月) 19:14 -

引用なし
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   馬乗さん、ご意見ありがとうございます。
私も書き込んだあとで、いくつかサイトを回ってみたのですが、兵数について書かれているのは見当たりませんでした。

馬乗さんからの情報を踏まえて、改めて孟達の援軍拒否について考えてみると、
横山三国志などでは、関羽が麦城まで逃げ込んで包囲されているときに援軍要請ということになっていますが、
樊城・襄陽包囲時では、演義での孟達が言うような、「援軍に行っても無駄」な状況ではないと思うんですよね。
関羽劣勢時の援軍なら、上庸も危険かもしれないという動揺を与えることになり、反乱を誘発しかねないのではないかと思いますが、
少なくとも樊城・襄陽包囲時点では、そこまで援軍が動揺を与えることはないんじゃないかな、と思いました。
よく演義の孟達は卑怯者だ、みたいな意見を聞きますが、自分としては演義のほうが正当で、正史のほうが卑怯者のように思えてきました。


そういえば、関羽の援軍要請より前に、孟達が関羽に援軍を送ったときに、「余計なお世話だ!」と言われたという話を聞いたのですが、どんな話かわかる方がいたら、教えてください。
質問ばかりですみません…

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