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呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンw
この手の話に必ず釣られる孫ぽこです。
>少し前に正史の孫呉の孫一族を読んでいて思ったのですが、孫堅死後の孫一族ってあまり仲が良くなかったのでしょうか?
>というのも孫堅が死んでから孫策が揚州攻略の時になかなか孫静は一族を引き連れては来なかったですし、孫憤を呉景ともども袁術のもとへ返しています。
>孫策が古参の武将を配下に加えたとしても1000余名ぐらいのものでそんなに多くはないわけですから孫策としては一族の率いる兵士が頼みの綱になるはずですが孫策に従っていません。
>孫策みたいな若造に孫一族ならびに自分の子供たちの運命を任せる危険を冒すことは出来なかったのかもしれませんけど王朗を攻略してしまうと孫静は田舎へ帰ってしまうし孫策が死んでしまうと孫権を盛り立てて行こうとしているのに孫嵩が宗主の地位を取りに行ったり、孫輔は曹操に誼を通じようとしたりしてます。
私もそういう気がします。そもそも孫堅自体が次男です。孫憤からすればこっちこそが孫家本流という意識があったとしてもおかしくないように思えますし、孫静の動きも孫策とは一線画している気がします。丹陽攻略が終わって初めて孫策と合流。それもただ一戦で隠遁。
それに孫家といっても、成り上がりのペーペーなわけですから、家の格式なんてもんもなかったでしょう。孫堅・孫策期は孫家宗族といっても勝手やりたい放題って感じに見えます??ただ、
>また孫権在位中から息子の病死や二宮の変でバタバタとなくなりだすともう歯止めが利かなくなり他の孫憤・孫輔・孫静のグループの力が増し孫権死後、息子達は軒並み死に追いやられている感じがしますし、一族内部で自殺、造反、誅殺が頻繁に起こっている事からあまり仲がよくなかったのではないかと思っていますけど皆さんはどうお思いでしょうか?
孫権が皇帝となって以後の孫家宗族の問題はまた別次元かもしれません。二宮の変も宗族の仲の悪さが原因というより、豪族と皇帝権力、あるいは孫権の皇后・皇太子に対する意識の問題のように見えます。
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