わかれ目   〇九
184/02-
<<目次
<<〇八


   城壁の上に立ち、朝日を見ようとしていた。

   潁川郡のこのあたりは何度か通っている。だけど、賊軍が横行し、治安が悪くなり様子ががらりと変わっていた。官府(やくしょ)は焼け、市井(まち)は荒らされていた。だからこそ、変わらない風景を目にしたかったのかもしれない。
   空が白みはじめている。その微々たる変化を眺めながら昨日までのことに思いを馳せる。


   三日前から戦況は好転していた。

   それは義真が援軍を率いて合流してからだ。三日前まで長きにわたり対峙していた敵軍は一戦を交えると、あっさりと退却していき、我が軍は南へと進んだ。その後、敵軍と何度か遭遇したが、連戦連勝だった。戦うたびに自軍の士気は上がり、ついに当初の目標であった長葛城を奪取し、ひとまずの拠点にした。

   こんなにうまくいっているのに、私は嫌な予感を感じずにはいられなかった。
   なぜなら敵軍はちょうど初めて戦ったときと同じように、戦えばあっさりと退却していたからだ。まるで手応えがない。
   だからこそ、敗北した二戦目を思い描かずには居られない。やがて、また敗北を喫するのかと。


「どうした、公偉?   早いな」
   不意に後から声をかけられた。振り返るとやはりというか、義真が左側に居た。その姿を見るとすぐ疑問がわく。
「あなたこそ、どうしたんですか?   総大将がこんな軽い行動をしては下々の者たちが浮き足立ちますよ」
   冗談を込めて返した。何もないとき、上に立つ者が見張りの兵卒みたく、こんなところに居るのは変だ、という意味だ。
「それはおまえさんも同じ。せいぜいその『下々の者たち』に見つからないように気を付けるんだな…」
   義真は即答し、再び話し続ける。
「…儂がここへ来たのは、直に外の様子が見たかったからだ……でもまだ早かったようだな、薄暗くてよくわからない……」
   暗い中でも、そう言う義真の顔がなんとなく苦笑いをしているようだった。義真は改めてこちらを向く。
「…おまえさんもそうだろ?   敵が帰ってきてないか、気になるものな」
   義真のその質問に「えぇ」と軽く相づちをうった。義真は城壁の外をながめる。

   暗がりの中で義真の横顔がうっすらと浮かんでいる。
   彼も今までの連勝に、何か危険なものを感じているんだろうか。

   だんだん明るくなっている。
   朝日の頭が見える。地平線がはっきりと浮き出る。
   この地でみるのは初めてだ。

   ふと左の義真を見ると、彼の顔が日の光に浮かび上がっていた。
   ところがその表情は硬直していた。
   すぐに義真の視線の先を追った。彼の心を奪っているものを今すぐに知りたい。
   そうするとそこに草むらがある。さっきまで暗くてそれがどんな色かもわからなかったぐらいだが、今ははっきりしている。
   草と草の間をよく見ると、至るところに、自然のものではないものが見える。緑ではないものだ。

   それは帷幕だった。
   敵軍が草むらの中に軍営を築いている。
   心では冷静なつもりだったが、背筋に悪寒が走っている。

   そのまま義真の方へ向き直る。
「まさか一晩で敵軍に包囲されているなんて!   それに何だ、この数!   ここから見えるだけでも少なくても一万はいます。すぐに全軍に知らせないと!」
   私は義真をせかした。
   義真は私の方へ向く。表情は一見、穏やかだ。
「いや、儂たちはすぐ居室に戻ろう。報告はまず見張りの兵卒に任せよう。儂たちが真っ先に見つけ、騒ぎ立てれば、抑えが効かない動揺と騒ぎが兵卒たちに広がる……良いか、ゆっくり見つからないように戻るんだ」
   義真は小さな声ながらはっきりと言い放った。義真の言い分は理屈にあっていると思い、自分のあわて様を恥じる。軍事に関しては義真の方が一枚も二枚も上手だ。

   私ははっきりとうなずき、そのままゆっくりと居室へと歩を進める。


   我が軍が駐屯している長葛城を敵軍が包囲していた。その事実は見張りの兵卒たちにより自軍の全体に知られるようになった。何人かで敵軍の総数を確認するに、十万人強は居るとのこと。つまり、敵軍は我々のいる城を四方から包囲しているんだ。その事実は自軍の全体へと動揺を走らせ、恐怖を植え付けていた。今まで四万人の兵卒で敵軍でせいぜい三万人と戦っていたのに、いきなり倍以上の敵軍が現れたからだ。
   もちろんすぐに義真は緊急軍議を召集した。

   義真と私は上座にいる。並んで榻(とう)に座っている。二人の前には軍の将士が揃っている。もちろん傅南容、張子並、孫文台などの部下たちも出そろっている。現状確認を終え、いよいよ本筋に入ろうとしていた。
   義真は話し出す。
「……我が軍と敵軍はその特性が違う…それは皆が実際、戦ってみて判ったことだろう。しかしながら、敵軍は二つの戦い方を持っていると思って間違いない。一つは我々が連戦連勝していたときの、戦うとすぐ退却する戦い方だ。もう一つは朱中郎の軍を負かした戦い方だ……そこで朱中郎をはじめとし、その軍に居た者に訊きたいのだが、一体、どこが違う戦い方だったんだ?」
   義真はその場に漠然とした質問を投げかけた。

   おかしい。
   義真の軍と合流して以来、敗戦の様子は何度となく説明しているはずだ。今さら話題にあげるのはおかしい。
   何か別の意図があるにしても、これでは訊かれた方も答えづらい。現に変な沈黙の間がある。
   義真の方をちらりと見る。
   そこにはいつものおだやかな義真の表情があったが、わずかに唇がふるえているのが目につく。おそらく私以外の位置からは見えないぐらいなんだけど。

   義真の言動を異常と感じあわてる。ここは私が機転を効かせるしかない。
「皇甫中郎!   その訊き方はもしやあの計略を皆に話すつもりですか?」
   私の一言でどうやらその場の注目を一身に集めたようだ。みんな、私の口からでる言葉に期待しているようだ。それを待つため部下の誰も何も口にしようとしない。それに義真も何も話そうとしない。
   当たり前だ。計略なんて元からないからだ。私のでっち上げだ。

   返ってくるわけがない義真からの返事をすこし待ち、私は話を続ける。
「あれは着想はいいんですが、まだ案が固まってなかったはずです。もう少し我々で話してから皆に話しましょう」
   そう義真に言い放った後、すぐに部下たちを向く。
「そういうわけだから、悪いがおまえらはここでしばらく待っておいてくれ」
   そう言い残し、せかせかと義真の左腕をつかみ、立たせた。義真は唖然としながらも私がしようとすることに特に抵抗をしたり、疑問の口を挟もうとはしない。その様子が義真に何か異変があったとひしひしとこちらへ伝えている。


   部下たちに声が届かない部屋まで義真を連れてくる。相変わらず義真は表情が硬いまま崩さない。心ここにあらずだ。
   ところが私が立ち止まると口を開く。
「朱中郎、一体、敵軍はどういう風な戦い方だったんだ?」
   といつもと変わらぬ話し方を義真はした。私に連れてこられた理由も問わず唐突に訊いたからこそ、ますます義真に異変を感じる。
   私はすぐに両手で義真の両肩を持つ。
「どうしたんですか、皇甫義真どの。しっかりしてください」
   軽く義真の両肩を揺すり、はっきりと呼びかけた。そうすると、義真はようやく私の目を見る。いつも以上にまっすぐで力強い眼差しだ。だけど、どこかしら脆さを感じさせる。
「いや、儂は大丈夫だ。意識ははっきりしている……敵の動きに合わせた作戦や戦術もいくつも思い描くことができている……しかし、どれも実感がないんだ!」
   義真は目で私に訴えかけていた。彼の表情は今まで見たことないほど崩れている。だけど、何を訴えているのか、私には見当がつかない。だからといって、彼の気持ちを無碍にするわけにはいかない。

「それはどれも今からあなたが成そうとしていることなので、実感がないのは当たり前です」
   今まで信じていたものが目の前でもろく崩れ去ろうとしていた焦りからか、どうも言い方がきつくなってしまっていた。

   私の両手の狭間にいる義真は大きく深呼吸する。何か意を決したようだ。
「わかった。初めから話させてくれ…」
   義真の目を見て、私は思わず彼の両肩から両手を離していた。

   義真は話し出す。
「…おまえさんは三年前、南の兵乱を鎮めた。それから今、北へ進軍している北中郎将の盧子幹どのは九年前、反乱を起こした蛮族を服従させた……わかるだろ?   今、中郎将として前線で戦う者にはそれなりの実績があるんだ…」
   義真の言葉に一つ一つ私は相づちを入れていた。そうすることで義真が感じている心の危機を少しでも和らげられると信じている。彼は続ける。
「…これは何かの派閥に属しているとかで人を選ぶんじゃなく、戦の実績を重視している証拠だ。そうしないと四海(てんか)が危ない、ひいては自分たちが危ないとようやく上の者たちが感じ始めたんだろうな…」
   義真の言うことは明確だった。しかし、言いたいことがさっぱり伝わってこない。それでも私は根気よく彼の話す内容を聞いていた。そうしないと彼が何かの重圧につぶされそうなので。今が彼が活きるか朽ちるかのわかれ目だ。

   いつのまにか義真は顔を紅潮させている。
「…ところが儂はどうだ。何の実績があるか?   兵は持ったことあるが、戦の指揮をしたことない。おまえさんらが中郎将に選ばれるのはわかる。しかし、儂が中郎将になったのはわからない。強いていうなら、この大乱が起こったとき、軍事に関して進言したことぐらいだ。上の者たちは勘違いしている。儂の家は確かに何人か将軍を出している。儂の軍事に対する知識も深い。だからといって儂が経験豊かに戦をこなせるわけじゃない」
   義真の声に熱がこもっていた。それより彼の話す内容に私は愕然とする。彼が戦の指揮の経験がないことを知らなかった自分を恥じる。彼は私のことをよく調べていたというのに。
   思いこみで彼を見ていたことは、上の者たちも私も同類だ。

「儂は今の戦況でもいくつもの作戦や戦術を考え出せる。例えば、全軍をあげて敵軍の包囲の一点へ突撃をかけるなどだ。ところがどの作戦も戦術も実感がわかない。おまえさんだとどんな戦況でも、少しでも今までの戦にあてはめたりつなげたりして実感がわくんだろうけどな。儂にはそれがない。だからどの作戦にも戦術にも自信がもてない。迂闊に兵卒たちの命を預かり作戦に移ることができないんだ…」
   義真の吐露で長い沈黙が訪れるように思えた。

   だが予想に反し、私の口から明確な言葉が出ようとしている。
「一人で背負い込むことはありません。何のために左右二人もいるんですか。あなたは私が敗戦したとき、『負けたときは共に挽回すればいい』とおっしゃってくれました。今度は私があなたに言う番です。迷ったら共に決めましょう!   それに私はあなたの軍事に関する知恵や機転にはいつも驚かされていました。だから思うんです…いえ、信じているんです。私が体験した敵軍の戦い方、それからあなたの知恵を加えれば、怖いものなんてありません。どうか自信を持ってください」
   私の心の中から飛び出た言葉で、義真は呆然とこちらに顔を向けていた。

   理解できる。きっと彼は自らの心に知らず知らず四方に壁を築いていたんだろう。
   私が戦に敗れ、一人でどうにかしようとしていたとき、私も心に壁をつくっていた。だけど、その壁は義真によって崩された。だから、今こそ、私が義真の心の壁を崩すときだ。そうしないと、彼が自滅してしまいそうな気がした。

   今がわかれ目だ。

   私の言葉を納得したのか、義真の顔に生気や覇気がよみがえってくる。
   今、彼の心の壁が崩れたんだ。
   それは彼の心の中だけでなく、やがて敵軍の包囲の壁も崩れるだろう。そう信じられる。

   義真はこちらに眼差しを向ける。それは力強く、迷いなどない。
「では、儂が最良と思う作戦を今からおまえさんに告げる。それが通用するかおまえさんの意見を聞きたい。それからまた案を改良すればいい」

   義真の申し出に、私は笑顔で応じた。

   これからが正念場だ。だけど、うまくいくように思えた。