わかれ目   〇八
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   あれから五日経った。

   何度、目が覚めても、事実は依然、そこに横たわっていた。

   あんな敗北をしたんだから、今ごろ、二度と目が覚めないなんてこともありえたし、目が覚めても手足を縛られた状態でもおかしくなかった。
   だけど、私は自軍の陣営で何不自由なく目を覚ましている。体に何も痛みがない分、その痛みはもろ心へと襲いかかっている。

   完全に目が覚めるのを恐れている。この蒙朧(もうろう)とした意識のまま、ずっと居たい気がする。
   これではいけない。
   まるで背中を刺されたように、牀から飛び起き、履(くつ)をはく。

   五日前、私に意気地がなかったことが幸いしてか、総崩れすることなく退却できた。過ちを取り返そうと深追いせず、すぐに退却の命令を出したのが返って良かったのだ、と部下は私をなぐさめていた。
   だけど、五日前のことにより、生死のわかれ目に立たされている自軍の兵卒たちは、私一人で数え切れないほど居る。その事実はしっかりと横たわっている。わかれ目から死へ転がった人々はやむを得ず、戦場へと置き去りにされたから、ここにはかろうじてわかれ目の生の側にいる兵卒ばかりだ。部下たちに止められても私は彼ら兵卒たちのところを訪問した。彼らの無惨な姿をみて、自分の選択をひどく悔いていた。


   幔幕をかき分け、外へ出て、高台にのぼり南を見ると、敵の陣営が何とか見える。数では初めから敵の方が二倍以上あるのに、この五日間、いっこうにこちらへ攻撃をしかけてこない。それに敵はただのにらみ合いをしているわけではない。敵の軍営へとどこからともなく兵卒たちがあらわれ、兵数が日増しに大きくなっている。見張りの話を総合すると、どうやら敵の兵数は三万まで膨れ上がったらしい。
   生殺しだ。

   それに偵察を四方へとばすと、返ってくる答えは決まって、
「敵の軍営がありました」
ということだ。
   答えは明白。我が軍は遠巻きに包囲されている。

   五日前に負けたこと、そういう状況に置かれていること、そういったことの報告を一日ごとに伝馬にたくし、京師(みやこ)の方へ駆けさせていた。京師へ向けてというより途中の皇甫義真へ向けての報告が主だ。
   ちゃんとその伝馬はこちらへ返ってきていた。しかし、向こうから来る伝馬は竹簡など何も携えていなかった。

   義真は私が指示に従わなかったことに腹を立て明確な指示を出してないのかもしれない、そういう邪推が私の心を横切っている。義真がそんなことをするはずはない、と強く自分に言い聞かせても、時が経つにつれて増えたり広がったりする心の透き間に、邪推がどんどん入り込んでいる。
   今、自分の心は汚れている。
   そう認めるたびに反吐が出そうなぐらい自分を嫌悪していた。

   援軍なんて来なくて良い、そう自分に言い聞かせる。
   しかし、そうは言ってられない現実が迫っている。

   いたずらに時を過ごすわけにはいかない。だけど、身動きがとれない。

   南も東も西も敵ばかりだ。しかも私の軍を締め上げるみたいにじわりじわりと近づいている。
   息がつまりそうだ。泥水に沈められた気分だ。水面へ出ようと必死にもがいている気分だ。そのせいか、自然と後の北へ顔を向ける。
   北の風景にふと奇妙な点を見つける。

   砂塵が立ち上がっている。もしや…


「皇甫中郎の軍が北からやってきました!」
   高台の上での堂々巡りの思考に、突如、大声が舞い込んできた。私は高台から下を見下ろすと、そこには見慣れた部下が私の方へ面を向けている。
「ご苦労」
   いつもの言葉だけど、効果的に部下は去っていった。
   私も急いで、その場を去ろうと動き出す。馬だ。馬で迎えに行くんだ。


   義真と会うのを私は恐れているが、何かが変わることは確かだ。


   軍の先頭で馬に乗る義真。
   そこへ馬で駆け寄る私。義真は顔を向け合図をするだけ。
   私はそれを見て、義真の馬から右へ少し離れたところへ平行に馬を歩かせる。
   義真の毅然とした態度は私に何もしゃべらせないような気がした。
   そのまま、柵の間をとおり、軍営へ入ってくる。

   話し合いたいのに話せない。わかれ目のそちら側へ行けない。ほんのわずかな間だが、とても長く感じる。むなしく時を流している心地だ。


   義真の軍が加わり、総数は四万人近くに膨れ上がった。暗黙の了解のように、軍営は増設され続けている。もう義真の手もあいた頃だろう。
   そう思うと私は早足で義真の帷幕の前へ立っていた。門番に軽く用件を言付け、しばらくすると、入ることが許される。
   幔幕をかき分け中へ足を踏み入れる。

   そこには榻(とう)に座った義真がいた。何もしていない。私へ眼差しを向けている。表情がない。何も声を出さない。
   座ったまま義真のまっすぐな視線。
   記憶がよみがえる。初めて義真に会ったときも義真を恐れていた。しかし、その時とは違う恐れ。
   私に非があるから恐れている。
   何も声が出ない。

   義真の口元が動く。

「悪かったな。もっと早くくるつもりが遅れてしまった。だが兵数はごらんの通り予定の数だ」
   義真はあっけらかんと言った。
   謝りたいのはこちらだというのにどういうことだろう。いくら腹がたつとはいっても、あてこすりでわざと無視するようなやつではない。
   私は視線を下へ外し、話し出す。
「何も言わないのですか?   知ってるでしょ?   私はあなたの命令に逆らい、しかも負けを喫するという無様な姿を見せました……」
   自分の非を口にできた。しかし、次の言葉が思いつかないでいる。面を少し上げると、義真の変わらぬ眼差しがある。
   冷たい沈黙を覚悟する。
「あぁ、あれは残念だったな。敵軍もただの寄せ集めじゃないってことだろう。今度は儂が持ってきた軍があるから大丈夫だろうよ」
   と義真の口からの言葉。
   「残念」?   ただ、それだけなのか?
「私は多くの兵卒を危険にさらしました。あなたの命令に逆らってまでです」
   義真が聞き間違ったと思い、はっきりと言った。自身の沈痛な気持ちを自らあおることになっていた。自然と顔が下を向く。
   視界の端に義真の顔が入る。
「何か勘違いしてないか?   儂はおまえさんに命令を下した覚えはないぞ」
   義真の言葉に再び私は顔を上げた。私の視界の真ん中には義真の顔があった。彼は眉間にしわを寄せているが、口元は笑っている。
   そんなわけはない。私は何度も竹簡に目をとおしている。
「確か書簡に『待っておいてくれ』というような旨を書いていたはずです」
   思わず声に非難の色を込めてしまった。なぜか義真の目元はさっきより柔らかくなってる。
「あぁ、あれか。あれは儂の意見だ。命令ではない」
   義真は言った。しかし、あのときは…
「あなたは私の上官です。たとえ意見の書簡であっても、指令書とおもうでしょう?」
   責めている口調にならないよう、発音や言葉遣いに気をつけた。義真の表情は変わらない。
「やっぱり勘違いしている。おまえさんや儂が中郎将になったとき、言ったはずだ、『左も右も似たようなものだし、上下のわかれ目などない。軍を指揮する者に変わりない』と。儂は上官のつもりはないし、おまえさんを部下にした覚えもない。だから、当然、おまえさんの軍の行方はおまえさんが決める。そのため、負けたときは共に挽回することを考えればいい」
   義真はつらつらと言葉を並べた。

   緊張が一気にとける心地がする。
   というと、ここ数日、思い悩んでいたことは私の思い違いからくるものだったと気付き、一人で心の重荷を背負うことはなかったんだと思うと、全身の力が抜けていた。
   そんな気持ちの中、義真は続けて話す。
「それにこっちにはこっちの事情があってな……こちらへの行軍途中に京師から伝馬が来た。そこの書簡には官府の名と官位の名がまず書かれていた……つまり、この書簡を書いた人物が『高官』だって言いたいんだろう。書かれていた内容は儂の軍に京師へ戻れというものだ。理由は犠牲をおまえさんの軍だけに留めたいからだとよ。きっと少しでも自分たちのいる京師の守りの兵数に加えようという腹だ。冗談じゃない。いくら高官だからといって軍の部外者が口出しするなってふうに、儂へ直接、命令できるのは大将軍の何遂高どのか天子様だけだ、と書いて送り返してやったよ」
   義真の声に若干、得意げな調子が含まれていた。
   義真は軽い口調で言っていたが、私は彼の置かれた状況とそのための心労を察している。この腐った政治では、直接的な上官じゃないからこそ逆らえば、彼の立場を危うくしかねないことを知っている。いうなれば、彼は多くの危険をはらってここまで軍を進め、私の軍を助けに来ている。
   そう思うと、何とも言えず、胸が熱くなっていた。

   しかし、今の状況が多くの兵卒たちの犠牲の上に成り立っていることは忘れてはいけない。
「兵数は揃いましたが、敵軍は手強い……どう攻めていきましょうか」
   私は面を上げ、決然と義真を見た。義真も決然と眼差しを返す。
「なぁに、儂の兵数と敵軍に対するおまえさんの経験があれば、やつらに勝てる、きっとだ」
   義真はさも当然のごとくおちついて話していた。

   私は義真の前にある牀に座る。これから先のことを話すためだ。