わかれ目   一〇
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   左中郎将の皇甫義真は軍議の場に足を踏み入れる。
   場はざわついていたが、彼が足を踏み入れると、ぴたりとそれが止む。
   私は彼の後についていて、その様子を彼の背中を通し感じている。とてもたのもしい。

   義真に引き続き、軍議の場に足を踏み入れる。そのまま、元居た榻(とう)に座る。もちろん、左には義真がすでにどしりと構えている。
   私と義真の前に居並ぶ軍の将士たちがいる。みな、こちらへ真剣な眼差しを向けている。待たした分、期待がこもった目をしている。
   今の義真ならそれらに応えられる、充分に。

   義真は軽く息を吸う。今にも覇気がこぼれそうな状況から声を発しようとしている。
「我が軍は四万人弱、ところが敵軍はその倍以上の十万人以上だ。兵卒の数では敵が勝っている。それに城壁の内側からだと四万人すべての兵数をを戦いに投じることはできない。そうやつらも思っているだろう。だからこそ平然と城にいる我々を包囲しているんだ。だがその考えは間違っている。兵卒の多い少ないだけで勝敗が決まるわけではない。儂らには数の劣勢をゆうにくつがえす作戦がある」
   義真の声は静まり返った場によく響いた。その静かな様子とは裏腹に、みな食い入るような眼差しで熱気を発していたぐらいだった。ここにいる一人一人にはそれぞれ大勢の部下たち、兵卒たちがいて、みな大勢の命に責任があるからだ。

   義真はゆっくりと口をあける。
「おまえたちも直に敵の軍営の様子を見ただろ?   数に惑わされるな。敵軍が陣取っているところを思い出せ。地理上当たり前のことだが、敵の兵卒たちはみな草深いところに身を寄せている。儂らが勝てる隙がそこにある…」
   義真は言い終え、右腕を水平に広げ動かした。

「火計だ!   やつらのいる陣に火を放つ!」

   義真の一声はその場を駆け抜けた。
   沈黙の中、皆の期待の熱気がまた一段、上がるような心地だ。
   義真は続ける。
「我が軍の精鋭で、夜陰に乗じ、城外の草むらに火を放つ。もちろん燃え広がりやすいように風のあるときにだ。乾燥した草はよく燃えるぞ。広がった炎だけで、朱中郎の軍を敗ったときにみせた敵軍の動きに、つまり波才の軍の変幻自在な動きにくさびを打つことができる。炎は敵の軍営を焼き、敵の兵卒たちを翻弄するだろう。そうやって敵軍が混乱した隙に残りの全軍を城外に出し、一気に攻撃を仕掛けよう。そうすれば古(いにしえ)の斉の田単の功績を得られる!   この包囲を突き崩せるぞ!」
   義真が言い終えると一斉に歓声がわいた。
   不安と恐怖から部下たちが解放された瞬間だ。

   自信を取り戻した義真の言動には説得力がある。私が京師(みやこ)で彼に初めて会った印象そのものだ。義真なら自分の将来を託しても良い、そう感じてしまう魅力がある。
   この場にいる者たちもきっとそう感じているんだろう。
   それだけじゃなく理屈としても筋がとおっている。これだけでも部下たちの不安と恐怖を和らげるのには充分だ。義真が私に話したとき、すでに夜襲と火計を組み合わせる案にはなっていたんで、後は人数の割り振り、順序、攻撃経路など具体的に二人で決めただけだった。
   本当に私は頼もしい男を相方に持ったものだ。
   この勢いであれば、斉国の田単が燕国の軍を火計で退けたように、我々の軍も波才の軍を退けることができる。こんなふうにここにいる誰もが古の名将に自らを重ねていることだろう。

   歓声がある程度、おさまるのを見計らい義真は続ける。
「火を仕掛ける精鋭は儂の軍から千人、朱中郎の軍から千人、合わせて二千人だ。その精鋭の指揮は、儂の軍からは護軍司馬の傅南容、それから朱中郎の軍からは孫文台にとってもらう。精鋭の人選は彼ら二人にそれぞれ任せる」
   義真の任命で皆の注目は、その場に居た傅南容と孫文台に集まった。
   共に「御意」と一礼する。
   任命された喜びを顔に出さず、双方、精悍な面もちを皆にさらしている。
   それが良い具合に場へ緊張感をもたらしている。

   傅南容も孫文台もこの戦では編成や訓練の段階から思い出すとめざましい働きを見せているし、何より義真も私も二人の軍事的才能を認めている。その上、義真がこうも明確に任命すると誰も文句をつけないだろうし、不満も抱かないだろう。
   二人の役目は全軍の命を預かるといっても過言ではない。そういった役目を与えるには最高の雰囲気だ。

   義真は再び皆の注目を自らに戻す。
「精鋭が城外で火を放ち、敵の混乱と火の燃え広がり具合の機会を見計らって、儂と朱中郎が号令をかけ、一気に城内から城外へ攻勢を仕掛けるという手順だ。城外での戦の指揮は儂と朱中郎がその場に応じ取り仕切る。大まかな作戦の説明は以上だ。この後、個別に細かい指示を与える。決戦の時は儂が選び、追って連絡する。では解散!」
   義真はぴしゃりと言い終え、ゆっくりと立ち上がりその場を後にした。私もそれに続く。

   廊下を歩いていると後から大歓声が聞こえてくる。
   それが勝利への大きなうねりだと感じていた。




   風が吹きはじめていた。
   それはやがて大きくなっていた。

   夜が来ていた。
   いつもだったら、寝静まっている頃だ。それなのに今、動き出している。騒ぎ立てず迅速に配置についている。

   所定の位置で待つ。
   城門の内側すぐのところだ。左には皇甫義真。後には大勢の兵卒が並んでいる。その数三万五千強だ。

   その位置で時を待つ。ただ待つ。
   騒がず声を出さず静かに待つ。耳にはいるのは、城外の虫の音と風による葉のこすれる音だけだ。
   そんな状況だからあれこれ物思いにふけてしまう。

   時が来れば目の前の城門が開き、いよいよ攻撃となる。今度はきっと敵軍がすぐ退却するということはない、いや、できないんだ。
   敵軍の指導者、波才は戦えば退却してばかりだったが、それはどうも作戦の一環だったようだ。現に、我が軍は初戦で勝利し勢い良く進軍すると、二戦目で手痛い敗北を喫し、義真の援軍が到着するまで包囲されていた。そして、義真の軍と合流し進軍し、勝ち続けた後も、今、こうして長葛城で包囲されている。おそらく波才にとっての敗戦や退却は我々の軍をおびき寄せる手段にすぎないのだろう。まったく我々は二度も敵の罠にかかりこうして包囲を受けたということになる。
   それだけじゃない。波才の軍が私の軍を敗ったとき、確か、こちらの兵卒たちを一人一人、おびき寄せては包囲し、個別に倒していた。波才は軍の規模で包囲するだけじゃなく、兵卒一人一人の規模でも包囲の作戦をとっていたということだ。
   今、京師(みやこ)は張角の軍により北東から南東から南から攻められようとしている。もしかしてこれも波才や張角たちの戦略というより思想によるものなのかもしれない。

   ここまで簡単に包囲をうけているんだと思うと、これから先、それを敗っていくなんて、できないような気にすらなってくる。
「うまくいくんだろうか…」
   思わず口に出した。ささやき声程度だったら、どうせ、あたりの音にかき消されるし、なにより城壁を通り越し敵の軍営に届くとも思えない。

「必ずうまくいく」
   私の呟きに答えるかのように右から声が聞こえた。義真だ。
「おまえさん、教えてくれただろう?   勝ちに来る波才の変幻自在な用兵のことを。今回の作戦はその用兵も封じられるから、もう波才に打つ手はなくなるぞ」
   義真の声に珍しく興奮の調子が含まれていた。

   彼は戦に臨んで高揚しているんだろう。
   私以外、誰も気付いていないが、これが彼の認めている初陣だ。
   だけど、それを微塵も感じさせないほどの自信が彼に満ちあふれている。私に作戦を告げたとき以来、ますます覇気にあふれている。きっと彼の心中はどう敵軍と戦うかでいっぱいなのだろう。もしかすると、これから先のことも考えているのかもしれない。どう京師への包囲網を瓦解させるか、などを。

   義真と共に戦に参加すると思うと、こちらまで自信がわいてくるようだった。。
「そう言い切られると、自信が出てきました」
   暗闇の中、口から明るい声がでていた。
「そうか」
   素っ気ない返事。だが、その義真の声に少し喜びが含まれていた。


   徐々に高揚してくる。
   今までにない戦だとようやく心も体も認識してきたんだ。気が戦に向いてくる。
   今、波才は自らの作戦どおりに我々がはまっているとおもっているだろうが、実は我々が波才の軍をはめている。波才がそれに気付く頃にはもう手遅れだろう。その時こそ、この間の敗戦の借りをきっちりお返しする時だ。
   波才の得意な部分をやぶるのだから、大いに我々の優位となるだろう。もしかすると、この戦は我々の命を助けるだけではなく、全体の戦局をがらりと変えてしまうかもしれない。いわば、盛滅のわかれ目だ。


   城壁の外から怒号や悲鳴など、多くの声がするようになった。それに何かが燃えさかる音も聞こえる。
   作戦がもうはじまっているんだ。
   傅南容と孫文台率いる精鋭二千が火を仕掛けたんだ。
   城壁の上に立つ兵卒たちからは特に異常を報せることはないんで、作戦通りなんだろう。
   義真と私がそれぞれ見込んだ二人だけはある。

「馬を持ってこい」
   義真は命令を下した。
   暗闇でいななかれては困るとばかりに騎馬を用意していなかったが、隠れる必要のない今、呼び寄せる。いよいよ我々の動くときだ。

   つれてこられたそれぞれの馬に義真と私がのる。すぐに義真は次の命令を出す。
「城壁の者たち、火をたけ!」
   義真の号令で城壁の上が騒々しくなった。
   やがて、城壁の上が明るくなる。かがり火を焚いたからだ。城壁の外は混乱の渦だ。そこに飛び込むんだから、方角を見失うかもしれない。それをふせぐ意味もある。
   いわば、すでに城外へ出て戦っている精鋭たちと今から撃って出ようとしている我々との、導きの炎だ。

「さぁ、覚悟はできたか?」
   その義真の声は号令でなく、私だけに聞こえる程度の声だった。私に訊いているのか?
   その返答は決まっている。
「私はあなたに京師で『天下の安全を任せられる人物』と言われたときから、もうすでに覚悟は決めています」
   上からかがり火でかすかに照らされる中、にこりとした。

   義真は一笑する。
「ならこの城門を開けても大丈夫だな、そのぐらいの覚悟があるんだったら。これから先の闘いは長い。いや波才を倒しても終わりが見えないぐらいにな…」
   彼の言葉に意味深なものをふくんでいた。

   私は頷く。

「城門を開けろ!   今が攻め時だ!」

   義真の号令で、鼓が順々に鳴り響く。
   今まさに門が開こうとしている。


   この門が運命のわかれ目だ。

   私はそれを踏み越えようとしている、大胆に。