わかれ目   〇七
184/02-
<<目次
<<〇六


   孫文台が言うには、潁川郡にいる敵軍の指揮を、波才という者がとっているらしい。
   要はそいつを倒せば、潁川郡の敵軍が総崩れになる。京師への脅威を防ぐどころか根っこから引き抜けてしまえる。
   今、その目標へ言葉通り一歩一歩近づいている。

   私はそれを馬上から感じている。ここからだと軍の全容が見渡せる。徐々に、そして確実に近づいているんだ。

   行軍の流れに逆らって騎馬が前からこちらへ向かってくる。偵察の騎馬だ。
「ここから十里ほど先で敵軍が集結しながらこちらに向かってきてます。敵勢はまばらに行進しているので兵数は把握しかねますが、一万人近くはいると思われます」
   私は「ご苦労」と軽くねぎらいの言葉をなげかけた。それをきいて偵察の者は私から遠ざかる。

   また戦だ。
   だけど、あの京師(みやこ)での不快感を思えば、やり遂げなければならない。いち早くこの惨事を終わらせるために。

   行軍の前方でざわめきが起こる。敵軍だ。
   前方から順に鼓の音が近づいてくる。
「配置につけ!」
   前回と同じように文台の合図をきっかけに軍を展開させる。二回目ともなると一回目より一人一人の兵卒や全体の軍の動きにどこかしら落ち着いた印象を受ける。

   絶妙な間で敵軍との戦闘距離に踏み込む。地形の違いのせいか、敵軍のところの砂塵が前回より多く舞い上がっている。ちょうど舞い上がった砂塵に敵の兵卒の黄色がとけ込んでいるようだ。
   すぐに兵卒たちの矢が一斉に飛ぶ。そして一斉に攻め走る。
   良くは見えないが、それぞれの矛や戟で攻撃するのが手に取るようにわかる。訓練を何度も目にしているから容易に想像できる。
   前回より我が軍の士気が数段、高い。敵にほとんど抵抗する間も与えないほどだ。味方がどんどん攻撃している。

   何か、変だ、と気付く。それはここからでもわかることだ。
   気付いたきっかけはあまりにも訓練どおり過ぎること。まったく訓練のままに感じた。それはなぜかと、己の記憶を探ってみる。訓練といっても様々だが、この軍で主に行っていたのは行軍から戦闘に至までの各人の動きだ。いや、それに加え実際に矢を放ったり攻め動いたりしていた。実戦さながらだけど、実戦とは違う。
   それは敵が居ないこと。

   そうだ、今、まるで敵が居ないような味方の動きだ。まったく手応えがない。
   よく見ると、敵の兵卒は攻め寄る気配がない。どこを見ても我々の攻撃を待ち受けてばかりだ。いや、待ち受けているどころか、攻撃をうけた敵の兵卒はむしろ後へさがっているぐらいだ。そのためか、ここからだと味方の兵卒は砂塵の中へ吸い込まれていくようにみえる。実際、敵がなす最前列の凹凸が乱れて波打っている。
   味方の兵卒は敵が後退したからといって立ち止まらず、そのまま攻める。そのため、味方の最前列も凹凸が乱れ波打っている。ただ敵の最前列と違うことは、断絶していること。さらに、味方の分断された最前列の隙間に敵の兵卒たちが入ってきていた。そのため、まるで、敵の黄色の中へ味方が一人一人、粒となって広がっているようだ。ここからだと、ちょうど泥水の中に少量の清水が広がりやがてまざりあって泥水と区別がつかなくなっているようだ。

   味方の兵卒が敵の中で消えて去っているのか?
   違う!   敵陣の中で、味方の兵卒が倒されているんだ。

   ようやく私は事の重大さに気付く。調子よく攻め進んでいるように見えたが、実際は味方が一人一人、敵の兵卒に包囲され、倒されている。見間違いかとおもって目を何度もぱちくりさせる。それは間違いなかった。明らかに倒されている。
   そんなはずはない!   充分に訓練された私の兵卒たちが倒されるわけない!
   一体、やつらはどんな手をつかっているというんだ。

   味方の兵卒がどんどん黄色に飲み込まれていく様子を遠くから見ているせいか、心の中が余裕から焦りへと変わっていくことをはっきりと感じている。
   このままではいけない。だけど、すぐに決めてはいけない。

   兵卒の一群をじっと見ることにする。そうすると、あれだけ訓練したはずの隊列が前から順に崩れている。もっとよく見る。そうすると、隊列が崩されているのではなく、崩れていることがわかる。味方の兵卒一人一人が勝手に敵の隊列の中へ中へと攻めているのだ。おそらく本人たちは敵を果敢に攻めているという自覚があるだけで、まさか自分が敵に囲まれているなんて思ってもいないだろう。数々の怒号にかき消され、聞こえないはずなのに、なぜか私の耳に兵卒たちの悲鳴が飛び込んでくるようだった。
   それに時々、強い風がふき砂塵がかき消されることがあり、敵軍の全容をかいま見れる。おそらく敵軍は我が軍の二倍以上だ。

   味方一人一人が訓練で培ったことを忘れ、簡単に敵陣へと飛び込んでいく。それが全体へと響いて、我が軍は敵軍へと吸い込まれている。それは今、起こっていることなんだ。清水が濁流に呑み込まれる。

   撤退しろ。

   そう私の心で声が響く。
「退却だ!」
   呆然としていた体から声が飛び出た。鐸(おおすず)の音が順々に最前列へと近づく。
   その音が訓練の時より早く出ていることに気付く。それは兵卒たちが撤退を望んでいた証拠だった。撤退を望むどころか、思いつかないでいた自分自身に嫌悪感を覚える。


   そんな嫌悪感を振り払いために、私は指示をだすのに気を集中させる。心は深い霧がかかったようなのに、体はよく動き、声はよく轟く。

   無我夢中だった。

   己を省みると、後悔や自己嫌悪の感情に押しつぶされるなんて、わかりきっている。

   敗北へのわかれ目を気付かないうちに通り過ぎたんだな、と思いながら、後へ後へ軍を下がらせていた。

   これからどう手をうつなんて考えたくもない。
   今は生きている兵卒たちの安全だけが最優先だ。